==== PART 2です ==== 2005.7.21 鹿児島ラ・サール高校25期の三毛紀夫氏(大阪支部)が、「地域医療研究会ML」という、同6期の服部行麗氏(谷山で内科クリニック開業)が主催する全国規模の医療系MLに投稿した、ラサールのブラザーハウスの建物の由来に関するメールを、転送用に21期の後藤正道がまとめたもの。 なお、文中に出てくる「松岡先生」あるいは「松爺」とは、2004年12月に亡くなられた1期生の松岡正己さん(大阪支部)で、「matuめのがんの旅」シリーズを死亡直前まで173回にわたって投稿された。 lskghqへの転送については、三毛紀夫氏の了解済。 ブラザーハウスの建物の由来に関する情報をお持ちのかたは、三毛氏(afdjp101@oct.zaq.ne.jp)までご連絡をお願いします。 =============================== Date: Sat, 16 Apr 2005 01:22:12 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044694] 建築探偵 鹿児島谷山もの 12 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です。 いろいろと資料を 読みまくっています。 手元にとどく DM 添付写真、情報、次から次へと 重箱の隅をつつきながら、いろいろな記録本から さらに 1枚の写真を 場合によっては 30分、くまなくみて 検証しはじめました。。 ええと、、鹿児島の方々にお聞きします。 鹿児島の市電が まだ 私鉄だった時代が あったそうですが、 いつ 公営になったのでしょうか?? 古い 古い話だと 私鉄だった時代の 社長宅を フランシスコ会が 1920年代に 手に入れ、 それを 昭和29年の焼失まで どうも、木造の ブラザーハウス、修道院という いろいろな 名前でつかっていたみたいです。 いま 手元には 1923年の木造の写真 昭和29年焼失という 20周年記念誌@1970年発行のもの 開校当初の 入り口の写真、、 おそらく、ほぼ 同じ建物が 改装前と改装後、よこから見るか 前からか、、で 計3枚 比較検討しています、 入母屋造りと 切妻つくりの あわさった 木造で とても、外国人が最初から 日本人の大工にたのんだ造りにはみえない、 戦前の写真と 戦後の写真の 柱の感覚はおなじ 屋根の高さ、取り方、 さらに、戦前と 戦後の 写真の まわりの 松の木、バックの松林の 木の生え方が あまりにも類似 (松の木の植生がわからないので、 同一とはいいがたいが、はえやすい条件は変わらないと にらむ) で、、同窓生も 非同窓生も、 これではなにもわからないでしょうが、 時系列やる 1.はじめに 私鉄だった時代の市電の社長宅だった 木造 谷山にあった 小松原 にあった 2.フランシスコ会の手にわたった 3.それから いろいろな修道会などの手をへて 4.戦後 ラ・サール会のものとなっている 5.昭和29年焼失 それと、現存する 表面が コンクリートの ブラザーハウスとは また 別に 木造があった、 これは昭和25年の開学前に 改造 改築依頼された 衛藤右三郎氏の 思い出に その2つの建物の依頼があり、 いそいで 図面ひいた というのと 一致する (1960年、 10周年記念誌) つづく Date: Sat, 16 Apr 2005 01:36:00 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044695] 建築探偵 鹿児島谷山もの 13 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です、 今日はヒルの 休診時間、つかって フランシスコ会の 古い資料のコピーとりました、 背表紙が 駄目になりそうなので、 もう コピー機にかけたくないというのが 心情です。 そして、なぜか、ものすごく、夕方の診療がこみまして、 バテました。 そのあと、16日 突然、大阪から 2時間ほどはなれたところの 母校の同窓会にいくこと 決心。。 突然いったら、幹事や 出席者に迷惑かかるので、 まず こうこうこうだから、これだけの資料はもっていく。。 と アポだけ とって  古い卒業生 と 学校からの 来賓に その場で インタビューをしたいが 時間とれるでしょうか、 なるべくまとめて行きますので、5分づつ あわせてください、 と 事前通告、 そういえば、古い資料のコピーを 複数作成しないと インタビューに困る 20枚以上の部分を 抜粋、すべて その他 ほかの資料の印刷は ギブアップ、 一人で 深夜までかかって コピーとってホッチキスで まとめていました。 16日 夕方、某地区の同窓会で さて、何が飛び出すか、 何がわかるか とにかく 行ってみないとわからない。 きっと 何か 心地よい物が得られるだろう、 という期待ものも 不安あり、 問題は 道中、、きちんと 車内で寝かせてくれるか、 あとは 理路整然と やるだけです。 なお、、このMLに投稿した 今までの分、 こぴーとって ワードに 貼り付けたら、40枚弱いきました、 カウントしてないけれど、1ページを 1600字くらいで設定 はりつけたので、  いくら 余白、改行の多いわたしの文章とはいえ、 膨大な 量に 達しています。 ふ〜〜〜 これは まだまだ 幕開けだろうなああ。。 おやすみなさい。 Date: Sat, 16 Apr 2005 23:31:41 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044701] 建築探偵 鹿児島谷山もの 14 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です。。 今日は 名古屋地区で母校の同窓会があった。 古いOBが来られる そして、現在の校長先生がこられる。。なんとしても参加して、 古いOBには 写真や資料みせて インタビューしたい。 そして、校長先生には 以前にも 建物保存を嘆願したが、今回は ちゃんとした資 料を持参して、「お願いです、のこしてください」と もういちど 嘆願するつもり であった。 12時半、午前の診療おわる、 一連の 建築探偵 鹿児島谷山ものを 1から12まで ワードにはりつけたら、も のすごい量だった。それを 各5部印刷、ほかにも DMでいただいた写真を PPTに 貼り付け、まとめたり、もっていく いろいろなコピーの確認した。 16時20分 会場につく、 知っている後輩が 講演している。 そのあと 総会があり、 総会直後、 校長先生に 直訴にいく。 実はこの校長先生 メキシコ人で 流ちょうな 日本語をはなす。もう 10年くら いまえから、いろんなところで、お会いして、どうも ボクを覚えているようだ。年 齢は ボクと 5つくらいしかかわらない、はっきりいって、格好いいヒトである。   13年前の同窓会のときには  赤いネクタイに LARKを吸い、、マティーニをのんでいた。  わたしに言わせると  今風の ブラザーになるのだが、、私には 非常に前向きにお話にされる。 この校長先生に、こうこうしかじかで、古い歴史がわかりました。 かなりのことは 知っておられたが、さすがに フランシスコ会が 谷山にやってきて 聖アントニオ 修道院を 具体的にどうしたか、というのは ご存じなかった、、もちろん。Popeの 使節団の 谷山訪問などの御写真もみてもらった。 その他、古い卒業生の アルバムの写真とか 創立10周年記念誌、20周年記念誌 などをみてもらったが、それは 校長室にあるらしい。 で、とにかく 残してください。 1930年のものですから、あと25年後の 2030年に 100周年ができるよ うに、、など、しつこく 頼みました。 で、、校長先生、残そうにも、改装していくより、壊して新築していたった方が コ ストがやすいといっておられた、 理科館、高校校舎は もう こわされて新築にな るらしい、   でも、ブラザーハウスはなんとか おねがいします。。と頼んだ。 校長先生は ブラザーハウスの中は 現在 非常にきれいにしており、本当は 外装 のコンクリートをはがして、煉瓦にしたかったらしい、校長先生も 独特の赤色煉瓦 はご存じだった。 とにかく 見に来てくださいと 言われて わたしは有頂天になりかかったが、、 あのう、屋根裏に入れますか、、床下もみたいです。 とまで 言うと、OKですよ。と 了解してくれた。 来る前に電話してください、というので どれくらい前ですか、、と聞けば、5 分。。 だって、校長室にいるか、ブラザーハウスにいるかの どちらかです、と まあまあ 楽しそうにいっておられた。。 校長は 「ところで三毛さん、あなたの職業は なんですか?」 三毛  「医師です、建築てはありません。」 校長せんせい、、すこしびっくりする。 それと、この校長先生、日本語を覚えるのは六本木の フランシスコ会で 覚えたらしい、、 そのためか、フランシスコ会に したしみをもっていた。 あと、こんご、フランシスコ会の本から 写真など 借用するとなると 著作権のことが重要である。そのことは 校長先生に お願いした。 修道会と修道会でやってもらえれば わたしはありがたい。 あと、古いOBに インタビューした、 開校当時の 玄関、 1年生の教室は2階、、{ぼくらのころの 図書室) 2年生の 教室は1階(1期生 松岡さんせいたち ぼくらのころの音楽室) 木造のもうひとつあるはずの 修道院のことは不明だった。 御御堂は職員室ではなかったかな、、というところ もう一人の古いOBに聞けば、 御御堂の 1階には ロビーがあり、肖像画かかっていた、 マルセルプティさん(初代校長)かな? そこでわたしが質問、、グランマルセルさんではないでしょうか (谷山を買収するときに いろいろと 交渉された) う〜〜ん、そこまでは わかりません。とのこと、 あと、カフェテリアとは関係なく、 僕らのコロの 中学の寮の 食堂とか その辺は 当時のままです。 とのことだった。 航空写真は 校庭の 東端は 浜辺で、松の木がはえて、きれいな 海岸線だったみたい。 いまの産業道路ですね。。 〜〜〜〜〜〜〜〜 あと 名古屋以外の別のところからの情報です。 先日、 戦前のザビエル教会設計した 縁で、 ラ・サール学園の改築に参加した 衛藤右三郎氏を 文献から、紹介した (創立10周年記念誌) (http://www.geocities.jp/architecture_office_ymas/modern.html  より引用 鹿児島の近代建築 -------------------------------------------------------------------------------- 鹿児島は開国以前より藩主島津斉彬の政策により西洋の技術を多く取り入れてきまし た。 藤森照信著「日本の近代建築(上下)」にあるとおり磯の集成館事業は近代日本のさ きがけでした。 その後の近代化は首都圏の華やかさには全く劣りますが、鹿児島独自の動きがあった のです。 鹿児島の建築家 岩下松雄をはじめ興味深い設計をした郷土の建築家を紹介していき ます。 岩下松雄 三上昇 衛藤右三郎 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 その後も ラ・サール学園に関連、 いまは 弟子の 中山氏が継ぎ 衛藤・中山設計事務所 http://www.jawic.or.jp/kodawari/sekkei/sekago.html 鹿児島市内 草牟田町にありますね、、 図面がのこっていないかな、、、、、 とにかく、校長にあって、了解とったし、校長先生もその気になりそうだし、 ゆっくり進めていけそうだ。。 あ、そうそう、ホセ校長先生 1期生の松岡さんの 追悼文を 同窓会雑誌でみるまで 知らなかったらしく ショックでした、 といっておられてた では、また、つづく。 Date: Sun, 17 Apr 2005 21:15:29 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044702] 建築探偵 鹿児島谷山もの 15 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです。 このシリーズ、まるで 同窓生だけに書いているように 思われても仕方ありませんが、 でも、ボクがやりたいことは、 良い学舎で育ち 育った後 母校に帰ったときに その学舎が残っていれば どれだけの愛校心がわいてくるか そして、卒業校、自分らをおしえてくれた先生への なかには カフェテリアのおばちゃんへの 感謝などが でてくるに違いない という普遍性のもとに書いています。 たまたま 母校について やっています。 とはいえ、他の学校については わからないので そこの学校の同窓会は 私のような超例外が やるしかないのです。。 ここで、ある建築探偵の サイトの http://www2s.biglobe.ne.jp/~lucid/vories.htm の 学校関連のところの 豊郷小学校をみていただきたい。 これは アメリカ人 のちに 日本に帰化した ヴォーリズの 設計である。 これ 公立の小学校で、おそらく これだけ立派な小学校で 育っていった人たちには とてつもなく 大事な ものであり、 こころの財産だとおもう。 だが、これを 壊して 新築しようとした。 そこで、町長リコールまで 発展。 わずかな 票差で 保存する側の候補はまけた、 しかたない、それが、民主主義であり、保存のほうが つぶして 新築するよりも金かかり、 かつ、いっそ 新しいところに小学校をつくるといっても、 財政的に余裕がない、 しかし、保存運動は まだまだつづくとおもう。 そこには 教育が その場限りの 点数ではなく、 その人たちの 人生にまでおよぶ 大事な場であるという 考え、 いや、学校は、いざというときには 避難所にもなり、 災害にもそなえ、新しい設備で 子供の育てたいという 考え、 さらに、地元の 企業の 活性のため ものは壊して あたらしいものをつくり そうして お金がまわるという 資本主義の考えなど、 交錯する。 豊郷小学校はあくまでも例だとおもって では 鹿児島では? となると 鹿児島監獄、 いまの鹿児島アリーナの あの 残された門は? ということになるが、監獄と 教育機関では意味がちがう。 外見だけの美的感覚で 残すのではなく、 その地域の心の財産として また 巣立っていった人たちの心の財産として 残していくところが 異なる点である。 さて、はなしを 変える。 今日、ひさしぶりに 自宅のいろいろな郵送物の整理をしていた、 もう 半分以上が アホみたいな 郵送物で 迷惑とゴミであるが、 中には 税金の 還付の書類がはいっていたりで、整理のわるさに おどろいた、 その中には 神戸女学院の 寄付金依頼の きれいな パンフと 振り込み用紙、さらに、パンフには 寄付金の税制優遇にまでかかれていた。 神戸女学院は おそらく わたしが 中に入ったことのある中では もっとも 整備され、もっとも綺麗な キャンパスの私学である。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~lucid/KC.htm ここをみていただければおおよそわかるだろう。 この図書館、いままではいったことのある図書館では もう 別格である。 また 講堂というか、、ホールは 一度だけ 音楽のコンサートではいったが もう 音響、配置、雰囲気のどれをとっても、すごいとしか言いようがない それを 会衆派というプロテストタントの 方針で 何か行事があると 生徒に運営させている。 自ずから 生徒たちは愛校心をもち、卒後も 100マン単位のお金を 寄付していく「伝統」というのがある。 ちなみに わたしの娘はここにお世話になっている。 で、寄付の種類 パンフみて、せっかくだから 1マンか 3マンか なにがしかの 寄付をしてもいいなあとおもって、 さっそく、、 不出来なPapaは 娘に してもいいよ。。 というと、家庭内騒動が起こった。 寄付金の最低ラインが 20マン以上なのである、 でも、1〜3マンでも、出せば ありがたいに決まっていると Papaがいえば、寄付者の名前は残るし、表にでる。 そのあと、我が家庭はどうなったのかは ご想像にまかせるが、 従姉妹も 同じ神戸女学院の大学を卒業しているが、 震災のあとは 周りの人たちは こぞって 何百万も寄付していたった という。 寄付したから なにか特権があるというのではなく、 もう 在校時から、それが当たり前のようになっているし、 OGたちが 寄付していった大事な学舎で わたしたちも学んでいるという 誇り、愛校心は 恐ろしい レベルにある。 どれくらい歴史があるのかは知らないが、いま使っている校舎は 70年物くらいで、それが 古いからいやだとか、新しい建物の 中で学びたいという意見は ぜんぜん 聞かない、 聞かないくらい 納得させるものがあり、 管理・整備が行き届いている。 こういうのは 重み 風格というもので、そう簡単には作り上げれる物ではないのは おおよそおわかりとおもう。 つづく、 Date: Sun, 17 Apr 2005 22:00:29 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044704] 建築探偵 鹿児島谷山もの 16 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです、 さきほどのつづきもの、、 で、、いくつかの 高校などは見てきた、 鹿児島県内で書けば、 鶴丸 甲南 純心 山川 指宿商業などが 訪問したり 知り合いが教鞭とっていたりで 学舎をみたことがある。 純心は不思議なくらい 記憶にのこっていないので、ご勘弁ねがいたい。 鶴丸は 昭和40年代後半訪問、戦後建築そのものだったという印象があるだけであ る。 甲南は 先日の 建築探偵鹿児島 で、アップしたように、 結構ふるい、    30年前の記憶で申し訳ないが、がしっとした造りで    今から思えば 戦前の良い 日本の建築だったとおもう。 山川・指宿商業は 古いという記憶はのこっていない、 それ以外の鹿児島県内の 高校は見たことがないので 知らないと書いておく、 ただ、市内のある高校は わたしの母校の ラ・サール高校が 鹿児島で 最初に買収をもちかけられたが、土地の値段が 谷山にくらべて 市内の分だけ 高くて、買えなかったと 古いブラザーに聞いたことがある。 熊本は 高校を おのおの わざわざ行ったことがないので わからない、 ましてや ほかの九州の県のは わからないと書いておく、 ただ、占領軍のGHQが 日本の教育制度改革をするにあたり 6年の小学校 5年の中学校 ・女学校、2年の高等学校(大学の教養) それから 大学だったのを 戦後の切り替えで、6・3・3制に切り替えていった、 と同時に なぜか、日本の南端から 男女共学を すすめていった。 つまり 九州の各県の 公立高校は ほとんどの例外をのぞいて ことごとく 男女共学にされていったはずだ。 ちょうど 北関東にまで その占領政策がおよぶにいたって 遂行が おわり わたしが 大学にはいるころまでは 東京は 男女共学の北限、それよりも 北は 男女別学のまま 公立高校がのこった。。 その典型例が 磐城高校(バンコウ)@いわき市 であり 磐城女子校(バンジョ)@いわき市である。 男女別学、共学がいいかどうかは 別として、 ここで、母の記憶を書いておく、 母は 戦前に 堺高女にはいったらしい。 戦後、進駐軍がやってきて、 これから、男女共学にするといって、 近所の 今の 府立三国ヶ丘高校と 男子生徒 女子生徒の 半分づつを 交換したのを 覚えているという。 母はのこって 堺高女の 後進の 現在の府立泉陽高校に 卒業していったらしい。。 さて、ここで 建築探偵である、 この男女別学、男女共学の 発生するあとにできた学校は (小学校、幼稚園をのぞく) 建築探偵の 眼にはどうしても止まらないという理由が あるのが ここまで書けばわかるだろう。 もちろん、戦前からある 私立は別になる、 そして、いつのころからか 気づいていたのだが、 男女共学がすすまなかった 北関東以北には うんぐ、、と 唾をのみこむような びっくりするくらいの 古い学舎がのこっている 一度だけ、外からみて これはすごいとおもったのが 茨城県の県立土浦一高 http://www.geocities.jp/t_toshinkai/history.htm http://asydino.seesaa.net/article/104082.html である。 男女共学にすれば、トイレの問題など 旧校舎は 不便でしかたない、 これは とりこわし新築などの理由に十分なる。 また 男子校、女子校だけで「生き延びた」県立校はそれだけ古い学校になればなる ほど、古い建築はのこりやすいと書いておく。 残念ながら、わたしの眼にふれることはないので、たまたま ネットでしっていたら  わかるのだが、 見たことがあるのは 上記の土浦一高のみとしておく、、 さて、ここのMLには いろいろな 高校の卒業生がいるだろうが、 ご自分の学校の 古さは 文献以外で 眼で確かめれるだろうか、 もちろん、そんなもん、関係ないわい、と言われたら、それでおしまい、 でも、学舎には愛着がある、、 ****** 今日の最後に 強烈なのを アップしておく、 これは 大阪市内のど真ん中、、に 今でも現存する ちゃんとした 大阪市立の 教育機関である。 http://www.ocec.ne.jp/yochien/kindergarden/aisyu/c01.html http://www.city.osaka.jp/kyouiku/sikumi/bunkazai/bunkazai03_11_01.html http://sano567.web.infoseek.co.jp/OOSAKARETORO/meiji/meijidata/aijyu.htm http://www.hi-net.zaq.ne.jp/odagiri/topics05/douza.html http://www.uchiyama.info/oriori/kentiku/dentou/aisyu.shtml なお、この場所、あの緒方洪庵の適塾の斜め南にあると 書けば、へえ〜〜〜〜 と 驚かれ、 その両者に足を運ぶヒトがいるだろう。 なお 中ははいったことがないが 備品には あのバイオリンの ストラビウス?とかが あるそうな。 では いずれ つづく。 Date: Tue, 19 Apr 2005 00:02:11 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044715] 建築探偵 鹿児島谷山もの 17 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です、このシリーズ もう 3万字くらいになり、 一気に読んだら 1時間くらいかかるくらいまで ロングになってきました、、 で、、最初のコロは、古い建物は 文化遺産、みんなで残そうと書いていたのが 昨日は どうも 論旨が少しかわり、 興奮して、 お世話になった 学校の校舎を 残そうに なってきてます、、 そのあたりの 変遷は 土曜日 名古屋地区の 同窓会 に出席して ここの同窓会が 名古屋地区の PTAもかねているので 在校生の母親たちの前で、母校に対する 教育の感謝を 三毛的に 理路整然と 述べてきたので すこし 変わってきました。 以前にも書いたように また 同窓生は この春の同窓会誌「小松原」で 読めばわかるように 大阪地区の PTAの世話役は 松岡先生の とにかく熱意でなりたっていました。 あの人がいなければ、卒業生は 卒後 母校にどういう風に貢献していくかは ボクには 判らなかったと思います。 せめて、 昭和47年 48年ころの 松岡先生が 大阪のPTAでの奮闘に 似たことをしてみたい という 松岡先生の意思の継承だと思っています。 そして、不肖、わたくし、今年に限っては 夏の大阪PTAでは スピーチすることを快諾しました。 その予行演習みたいなことを 名古屋の PTAの母親方を前にして やってきております。。 どこの高校の同窓会では 世話役はでます、 それぞれ、形が違うので それは 各学校の 個性、方針、校風などなど、 ただ、ボクは 33年前の 自分の母が見てきた像を 今年 してみようと 思い始めてきました。 つづく、、 その18,19は また 異なったことを書きます。 ではね、 Date: Tue, 19 Apr 2005 00:25:55 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044716] 建築探偵 鹿児島谷山もの 18 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です、、 先日、どうも 鹿児島の市電が 私鉄だったころの 社長さんの 家が フランシスコ会が 最初に 聖アントニオ修道院と名付けた木造 の家だったというのをアップしました、 これに関して、ここのMLのメンバーから、DMがありました、、市電の歴史に関する情 報です。 とても 感謝するとともに 謎がとけていきます。 そもそも 市電が 私鉄だったはなし、かつ その社長さんの家だったはなしは 古 いブラザーから メールの問い合わせにレスする形で仕入れた情報です。 で、手元の フランシスコ会の資料では、1928年、と書かれた 木造の建物の写 真が 谷山の聖アントニオ修道院の写真としてでています。 ここで、鹿児島市交通局のHP http://www.city.kagoshima.lg.jp/koutuu.nsf/1bdf7493ee7ae73249256732004b1eb8/bb8d4a399c855a2a4925672f0027461e?OpenDocument ☆鹿児島市に電車が誕生したのは大正元年12月1日で全国で28番目に誕生 ☆鹿児島電気軌道(株)が武之橋〜谷山間を木造の単車7両で6.4 km運行 ☆昭和 3年7月1日鹿児島電気軌道(株)を4,963,775円78銭で買収し鹿児島市電気 局と称した。  (電車51両、貨車3両、散水車1両、土地建物、工場、遊園地、動物園、運動場 等) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 この買収の一覧には けっして 社長宅という文字はありません。 また 当時の谷山電停の周辺に わざわざ 立派な木造を建てて住むにはそれなりの 理由が必要ですが、この私鉄の社長が 住んでいたとなると 話のつじつまがあう。 1928年=昭和3年だああ。。 かつ、フランシスコ会の本にある写真と ラ・サール学園創立20周年記念誌の木造 の修道院の 写真をみくらべてみると、 まず 両方とも 真正面からの撮影である、 むかって、右側に玄関がある、 そこは 「入母屋造り」だ そして、よこにながく、左の方に伸びる木造の構造で、 両方の写真は 右側から真ん中にかけて、一致、切妻の造りで、 改装はしてあるものの 軒のたかさなどはおんなじ、 また 柱の間隔など すべておんなじ、、 違うのは 向かって左側の部分で、 どうも 日本家屋によくあるようにある柱を境 に 改装したのが 戦後の写真ではないか、、と ボクは推論するようになりました、 また、1928年当時と 戦後の間もない時期(実は昭和29年に焼失)で いちがいに周りの松の状態をくらべるには 無理があるが、 植生というか、周りはすべて松、 しかも 複数の松の木の高さと 建物の屋根との 相関が そんなにかわらず、 どうみても、小松原という 古い谷山のあの一帯に間違いないのは OKである、、 これは 木造の建築の専門家がみたら、一目瞭然で 比べてくれる世界だとおもう。 ただ、その建物が 現在の 母校のどこにあったのかは、インタビューしまくった 古いOBたちの記憶にも 残っていない。 おそらく、これが 戦前からあった木造の初代のブラザーハウスであり、 ある時期から、ブラザーハウスと称しているのが 木造と 煉瓦造り(たぶん 今の 学園に現存) の並列の時代があったと推定する。。 しかしまあ、、なんで、大正時代に 谷山と 武之橋 むずぶ私鉄ができたのか 謎また謎である。。 今の谷山からは想像もできないはなしであるし、 買収した昭和3年当時の 鹿児島の人口は おおよそ15マン 今の3分の1以下、 あと 谷山はかつては 谷山市であって、いまの鹿児島市ではなかった。 おそらく当時の中心部は 現在のJR谷山駅から、旧指宿街道 旧伊作街道の 分岐点あたりのごくごく 一部だったに違いない。 谷山を知っている人々ならわかるとおもうが、 いまの市電の谷山電停と上記の地区の間には 川がながれており、川の鹿児島市側で 市電は終点に なっているとかけば、、谷山の当時に小松原が 川の手前で 終点だったのが なんとなくわかる。 では。。 Date: Wed, 20 Apr 2005 11:12:52 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044731] 建築探偵 鹿児島谷山もの 19 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです、 視点をかえて、、、 話がかなり飛びます。 アメリカ映画 sister act をみたことがあるでしょうか 1993年か 1994年の作、 主演、ウーピー ゴールドバーグ ウーピーは 黒人であることは 誰もが知っているはず。 この映画の邦題は 「天使にラブソングを」だったはず あの映画をはじめて見たとき、なんと 妙な話とおもった というのも 黒人の歌手兼愛人が マフィアの殺人現場を 見てしまい、逃げるのを 警官が とんでもない奇抜な 方法でかくまい、かくまわれた先で 大化けする。 そこには カトリックの教会の ああ!! と思うような エンディングがあるのである。 ウーピーは派手な格好をして、アメリカでも 超遊び場で有名な リノというカジノのところにいたわけで、それが事件に巻き込まれた。 刑事は どうしても マフィアを有罪にしたいが 証言者がいる、 それが、ウーピーなのだが、証言される前にコロされるのは アメリカでは当たり前なので、ウーピーは逃げるしかない。 その逃げ込む先に なんと 刑事は サンフランシスコの カトリックの教会の シスターにしてしまった。 リノという超遊び場のカジノのショー歌手やっていた女性が その対局にある修道服をきせられ 祈りをさせられ 修道院で修道生活をしているわけで、まさか マフィアとはいえ そんなところに逃げ込むとは想像もつかない、 それに 修道院には刑事が寄付をして かくまうことをお願いしている。 ええ??本当にありうるの?? まあ映画だからね、、 と思うが 黒人のシスターって 想像がつかないが、 ありえると 知人のアメリカ人は当時 いっていた。 また 今回の コンクラーベの候補者の中にも黒人の候補者がいるので そういう物なんんだろうと ボクはおもっている。 ストーリーの展開は 全部かくと長いし 見る楽しみがないので 全部しりたいかたは レンタルビデオでどうぞ、 とかいておく。。 まあ、とにかく よくできた映画だとおもう。 この映画の中で 修道服を着たウーピーの活躍で 寄付金がじゃんじゃん あつまるシーンがある。 このシーンが ボクが ブラザーハウス保存運動をしてみようとおもった ひとつのヒントになる。 長い竿の先にザルをつけ、そこに 信者たちが むきだしの紙幣をじゃんじゃん いれていく、というものだ。 アメリカのプロテスタントの教会にいくつか連れて行かれたが、 明らかに むきだしの紙幣や小切手が 寄付金の ハコ、ザルの中に 入れられていくのを見た。 また、いくつかの museumの入り口で donationと かかれた透明のハコがあり その中に みなさんが こころざし、の金額をいれて、入館していくのをみた。 日本では 寄付者の名前をのこす習慣があるが、聞くところによると 1950年開学された 谷山の ラ・サール学園は カナダの人たちからの 1ドル 1ドルの集まった物で、5000ドルだったらしい。 何か通じる物をかんじるのである。 保存運動が何を意味するかとなると 寄付金活動になるのは ボクは十分承知なので あの映画の世界を想像しつつ いままでのことを書いていた。 でも、案ずるより産むがやすし、同好の志の中には もっと 良いアイデアを持ったヒトがいるので おどろいた。 その秘策は 保存運動がおきたときに その志より公開 提案されるのがよいとお もった。 さて、話をもどす。 あの sister actの映画は カトリックの 戒律の面などがでて 途中は ウーピーの持っている個性と 対比されて、独特な感じがしたが、 エンディングは ウーピーの聖歌隊が サンフランシスコの教会の 中で 法王Popeをむかえ、思い切り唄いまくって 終わっていくという はっぴぃえんど を迎える。 はじめてみたころは ええ?? 本当に Popeが映画の場面にでてきていいの? と思ったが、先日死去された パパさまなら、OKなんだろうとおもう。 そこにカトリックの 寛容性を感じた。 あと もうひとつ、 このシリーズ、冒頭から フランシスコ会のことを書いている。 聖フランシスコのイメージはいくつかあるが、人権活動と言う言葉が 最近ではあてはまる。 弱き者の救済というところだろうか。 なるほど そのイメージがあるから、この映画の舞台のサンフランシスコの ひびきは 聖サンフランシスコに 通じ、、 かつ、弱い立場の証言者のかくまう という人権活動に 教会が協力したというのは きっと フランシスコ会の 教会なんだろう?? と 推測して 先日、フランシスコ会の神父さまに 英語で 尋ねたら、 にこっとされて、でも、わかりません。だった。。 もし、あの映画をみていなかったら、ここまで 考えなかっただろうし、 この建築探偵は あくまでも ごっこで 終わっていたとおもう。 映画では 確かに ウーピーは ミッションをやっていた。 では つづく。 Date: Sun, 24 Apr 2005 01:49:23 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044756] 建築探偵 鹿児島谷山もの 20 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です。 つづき、、 本来は 23日に 投稿しないといけないのに、日付が変わってしまった。すみませ んと 謝ってから 投稿します。 この投稿は番外地、 でも、こういうのを始めようと思ったきっかけの 1.松爺へのお礼 2.松爺の意思の継承 なんです。。 で、23日18時から 非常にうちわの同級生の会、 名前は伏せるが とっちも頭のよい同級生、と 来るはずだった医師のY君。。。夫 婦で来るはずだったけれど、緊急手術でこれず。 しかたないよね、、医者だから、、 とかいいながら、 実は 1期生の松岡さんの奥様から いろいろなものを預かってきて 同窓会活動に 役立てようと しているんだ と三毛が言う。 おまえらしいなあと返事。。 で、y君くるはずで 昭和52年に 同級の y君 s君とともに 当時の同窓会長のmさんと松爺が 当 時の毎日テレビの 八木治郎ショーに出演している。 それは、「わが町 わが学園」の 当時の脚本 台本 さらに 松爺の 手書きの2枚のメモ それと新聞の番組表の切り抜きが 大事に保存されている。 で、、yくん来れないので 奥様だけが同席。。 三毛 「あのう、、、y君のかつてのテレビ出演ご存じですか?」 y夫人 「ええ??」 三毛 「たまたま あったものをボクがいま見直しているのですが、、、      コピーしてもってきました。。」 sくん 「三毛はこういうところ マメだからなあ」     「で、いつなの??」 三毛 「うん、昭和52年だ、、ちょっとまって 新聞のコピーあるから」 とテレビ欄の日付みたら、みんなが おおおおおおお!!! 全員 「今日だ      昭和52年4月23日になっている」 みんな驚いた、 もちろん、その番組に出演した y君にわたすためのコピーなのだが、 とにかく 手あかつけたくない きれいなまま 奥様に帰したいというので まだ 未読も未読。。 でも、今日 テレビ欄の日付にはきづかなかった、 こういうのって 何か縁があるよね、、と sくん yくん夫人、三毛で お話していた。。。 なお 崩し字に 略字に 独特の くせ字でなんとか 読めるが 松爺の 当時のテレビ出演のためと 思われる自分の原稿が 2枚の紙に書かれていた。 こんど あらためて 字を活字体にして、投稿してみたいとおもう。 そして、今年の夏 母校の大阪のPTAで スピーチ頼まれているが この 松爺の原稿のとおりに よめば 28年たった今でも 十分に通じると おもった。ありがたい ありがたい、、 このMLにも、アップします。。ちょっと待っててね。。 ここから、ちょっと 文脈かわります。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 なお、そういえば 昨年のいまごろ、 三毛 「あのう 松岡先生のことをいろいろ書いてもよろしいでしょうか?」 松先生 「わしが死んだら書いてもええわ」 と闘病の初期だが一瞬にこっとした。 かつて、「おまえは言うこと聞かん」とか いろいろと面と向かって言われたが (クジラは一番の優等生で一番言うことを聞くのよねん) それでも、三毛ちゃん 三毛ちゃんとかわいがられ、 闘病のお食事のお供もさせていただいた。。 闘病中は いっさいの松岡先生がらみのメールはMLには書かないことにしていたが、 さすがに、うんこシリーズをせっせと書いていたコロ、 三毛ちゃん もうちょっと待ってくれ、松の癌シリーズがこれでは 追いつけん、、と真面目なメールがたった2行ながら来たときに 書くなと書かず、待ってくれ、だった わたしは そのたった2行のメールに涙をながし、 死んだら書いてもええわ、、 というあの言葉を肝に銘じて 冬眠。。 あとで 奥様に聞いたら 「主人は三毛先生の あの投稿の番号をみて めらめらと燃えていました」と言われて、さらに、感動、感銘 じ〜〜ん だから、オーヘンリーの最後の一葉のつもりでした。 先日、松岡奥様には 生前、そのはなしをされていたことを 伝え、了解の元に 松爺が一番喜びそうなネタを いま 書いているつもりです。 いやはや それにしても、テレビの脚本 台本の  いたるところに書かれた手書きのコメント おおお、、これは、、というのばかりで さて、どうやって MLにアップしようかというところ。 それにしても、あれだけ 母校愛を 持ったヒトが どうして生まれてきたのか 育ってきたのか、 ようやく 手書きの原稿 メモなどをみて 背景がわかってきた。。 実直な でも、戦後の混乱期に 勉強したかった男の子の 一人であったことには間違いないとおもった。 メモから 読み取れるのは ボクと同じで、とにかくブラザーたちへの 感謝がやはり存在しているのだなあと わかった。 ああ、、せっかくのネタ、、24日になっているなあ、 しかたないが、  とにかく 昭和52年 4月23日は テレビに出ていた、 その記録がでてきて 三毛が解読しようとしている ということです。 ではね。 Date: Thu, 28 Apr 2005 03:07:47 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044771] 建築探偵 鹿児島谷山もの 21 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです。 ここで、予告、 今後の予想通過日時は 1928年8月17日、フランシスコ会が 谷山にやってくる   これは 市電の前身と関係しそうだが、島津公の別荘だったとも   書いてある、   市電の前身の 私鉄の社長が 島津関係なら、昭和3年の買収のはなしは   すべてが どんぴしゃになる。    こいつは 鹿児島に 古くからいる 誰かに 聞くしかないが、案外 あたっ ているのかも、    なお それまでは どうも市内薬師町に あったらしい。。 そして、 1930年9月15日   どうも 今の残存している ブラザーハウスの完成らしい、   いま 一生懸命に 過去の写真と その写真のいろいろを 比較しているが、   確かに 谷山の小松原の あの辺には ラ・サールが来る前には何か   たっていたのは 聞き込みでも、ボクが 33年前に聞いた 当時校長の   授業中の 逸話でも、間違いない。      そして、そこは 神学校、教会、 教区印刷所、 幼稚園などが 設置されて   宣教本部になっていたと ある。   非常に ゆっくりと集まってくる情報では、時代は確定できてないが、   その地にあった 純心の幼稚園に通っていたという話、   さらに、親戚が そういえば、小松原にあった幼稚園にかよっていたが   たぶん それと一致するのでは ?? という情報提供があることはある、   まだ 確認とれていない。  もし その人が生きているとしたら 80才を越えるが、 記憶がはっきり残って いるだろうか?  ちなみに 私は 年長時代をすごした 大阪市立の 幼稚園のことは かなり 覚 えている。 あとは どうも 6月13日の 聖アントニオの日、 1931年6月17日の エドワード・ムネー教皇鹿児島、谷山の聖アントニオ修道 院訪問、    (ブラザーハウスの玄関に 人のサイズくらいある 日の丸が クロスでかか げられ     そこに車がのりつけられて 見事な構図で 記念写真が残っている)    服部管理人には 4月9日の来阪のとき、その写真を そ〜〜と 見せたら    いや〜〜 信じられない、でも、これは そうです。 と驚かれていた。    ちなみに ブラザーハウスの 2つあった玄関のうち いまのこる、西側のと ころに    まず 間違いないだろうとのことである、    ボクの記憶では 西側しか 玄関のなかっただが、    その間、大改装があったのは わかっている。 それは 谷山の産業道路とと もに    埋め立てが始まった時期と一致するようだ。 とにかく、9月の15日をメドに ハコを開いていく、「開け ゴマ」 おやすみなさい。 Date: Fri, 29 Apr 2005 19:47:43 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044782] 建築探偵 鹿児島谷山もの 22 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです、つづき、 ボクより年配の ラ・サールのOBおよび 鹿児島の在住者は なんとなく わかると 思いますが、 鹿児島のカトリックの女子教育は 純心というところです。 ここと ラ・サールの関係は 実は 古いころ、「建物」 であったというのは聞い ています、 開学当時の 入学試験は 純心の建物借りたと 伝え聞いていますし、 開学以前には 谷山の あの修道院には 純心が はいっていたのは すでに MLにも投稿し、 語り継がれていることです。 このシリーズ調べていると どうしても、純心のことを調べないと いろんなことが わからないので、 今日は 乙女の園の 純心のサイトを 熱心に読みに行きました。 非常に長い 説明がたくさん 載っているサイトですが、 純心のシスターの部屋を見ると http://www.k-junshin.ed.jp/sister.html わたしが フランシスコ会の記録本を読んだとおりで、 大島高女、> 聖名 >純心となっています、 そのあとの 私が在学時に 伝え聞いた 谷山の地に 純心がはいっていたことは 詳細にかかれています。 官憲の監視下にあったことは 伝え聞いていますが、やはりそうでしたね、、 なぜ、そこまでして、、鹿児島に 純心も フランシスコ会もやってくるのか、、 それは おそらく、ボクの想像、推測ですが、 フランシスコ ザビエルが 上陸した地点で、宣教や布教の シンボルの地であったと おもっています。 で、、わたしは 勘違いしたのか 読み間違いしたのか、 フランシスコ会の記録だけを読んでいましたので、 フランシスコ会が 大島から もどっていく?のには 無限聖母の会(どうも カナダ関係らしい) そのあとに ホーリーネームとかいう 私の記憶にはない カナダの修道会 にうつってから 純心にいったと 曖昧ながら 読んでいました。 いま さっき サイトを読むと セイメイというのが ホーリーネームだと 気づきました。 漢字でかくと、聖明、聖名なのか、とにかく、あたっています。 そうして、 昭和16年 純心と名がかわっていったようです。 そして、官憲の圧力で、紫原の小高い丘の上にある 純心が 港が見渡せない 谷山に うつっていっていった というボクの知っている伝聞と おなじことが 記載されています。 さらに、軍の飛行場が見える位置はけしからんと 記載されています、 昭和47年まで 鴨池というところ、いまの 鹿児島の医師会病院などが あったところは 飛行場、空港でした、 軍が 追い出すのは 当然だろうとおもいます、 ここで 脱線、 1970年の 映画 トラ トラ トラ 日米合作をみたとき、 ボクの 心には 当時の 奇襲の 演習には 鹿児島が使われたと 覚えています。 で、 わたしが 鹿児島に在住したころ、  当時の古老たちからの 数少ない言葉で、 飛行機が 甲突川の上をとんで、桜島の沖合の 目標をねらって 演習したのは 本当ですか? と聞けば、「飛行機はうるさかったねえ」と 聞きました、複数回だが 複数人のごくわずかの言葉。 で、鴨池から 飛び立った 演習の飛行機は 非常に効率よく 演習できたと 何かの本で読みました。 だから、紫原の丘にたつものは 非常によい 軍の飛行場監視ポイントに なるのは いまから思えばなんとなく わかります。 〜〜〜〜〜〜〜〜さて 本筋にもどして、 戦前のいつの時代かはわかりませんが、、谷山の小松原に いまも ぽつんとある あのブラザーハウスに シーツなどの 白い大きな布が干されると 沖合に停泊中の 船舶に 何かの暗号を送っているとして、 官憲の監視下にあったというのは 在校時に ほんのわずかだけ 聞きました。 開学の当時、、いまの ラ・サールの 東端は 海辺だったというのは 語り継がれています。 実際にそうだったという写真、松岡先生のボクへの 懐かしそうな話など 間違いないので、それ以上の年数前の 戦前なら、本当に 浜辺に ぽつんとたった 明らかにわかる 洋式の建物だったと 思います。 つづく、では Date: Fri, 29 Apr 2005 20:07:50 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044783] 建築探偵 鹿児島谷山もの 23 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) Subject: 建築探偵 鹿児島谷山もの 23 さて、、その 戦前からの浜辺の建物、、いったい どんな人が 住んでいたのか、 興味があり、聞き込んでいますが、 どうも、純心の このところ http://www.k-junshin.ed.jp/hatta%20history.htm の英文の手紙を読んでみると 古い記憶のある OB、純心OGの お話に一致する。、 また 七田神父という人が、 ラ・サール会が 買収する 戦後のある時期まで、 ブラザーハウスの管理をしていたという 記載を 10周年記念誌から 読み取れます。 ここで 上記の英文 シスター ルイズの手紙の一部を 引用、 Great Bishop Yamaguchi, Mr. & Mrs. Moriya, to Father Shichida and to anyone who will inquire about the Sei Mei Sisters. この Yamaguchi という人はどんなヒトかは ボクは知りません、 称号からして 大司教でしょうか、、 次にくる MORIYAという夫妻は 守屋という漢字の人で 谷山の あのブラザーハウスが ラ・サール会に 買収される前に 住んでいたという 複数の証言を 聞いています。 純心は ボクの知らない修道会なので、はっきりしませんが、 戦後の 純心の校長先生だったそうです。 Father Shichida と言う人は まず 七田神父に間違いありません。 この人が ラ・サール学園の 1960年の 10周年記念誌に 投稿されています、 その記載を読む限り、 どうも この神父様が 戦争直後の ある時期に フランシスコ ザビエル 300周年記念の会合が 鹿児島で開かれ、 その際、戦後の 荒廃した 日本の 鹿児島の 教育のために ということで、複数の修道会の 関係者に 学校開設を依頼したことが 文章から 読み取れます。 七田神父は 戦争中、戦争直後、谷山のいまの ブラザーハウスの管理をして いたようだ。 それが いつなのかは まだ 西暦年数では 未整理ですが、 想像するに 1946年から 1948年か 49年くらいだろうと想像します。 その中のひとつに 本当に偶然で、ラ・サール会の修道士が含まれていたらしい。 七田神父の 投稿には マリア会 という言葉も読める。 マリア会は戦前の 東京?で すでに 学校をやっていたはず。 教育関係の修道会のはず。 一方、戦争直後の それまでの ラ・サール会は 北九州、静岡、函館 仙台などに 開校したいらしく、まるで 鹿児島、しかも 谷山の小松原は まったくの 瓢箪から駒だったらしい。。 それを 実行したのは すべては 敵国人とみなされていた 「カナダ人」であったのは 古いOBの誰もが 間違いないと 言うとおもう。 僕らのスタンダードの記憶では 学校の英語教育の かなりは このカナダ人の ブラザーたちが したが、 ブラザーハウスの中は フランス語の会話だったように 覚えている、 つまり フランス語圏の カナダ人だったのであった。 つづく、 Date: Fri, 29 Apr 2005 20:56:55 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044784] 建築探偵 鹿児島谷山もの 24 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです、 鹿児島の谷山の小松原にある ラ・サールには 1期生に 松岡先生がいたことは もう かなりの人が知っているとおもいます。 だが、ボクは不思議で不思議でしかたなかった、、 いつぞや このMLで、ご本人から、県内の名門県立に通っていたのは 投稿あり、 覚えている、 どうして、高校2年で 谷山の 新設校に やってきたのかが どうしても 理解できなかった、、 いちど、直接、聞いたことがあるが、 「そりゃ、、三毛くん、。ボクは谷山だったからね、、」 と返事があった、、 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ここから 謎解きが始まる、 だったら、昭和25年の開学に なぜ、高校1年をおえた 「松岡少年」が 編入試験をうけたのか、、 本当のところを 知りたい、 そんなの知ってどうするのねん、 と書かれたら 終わりだが、 なにか、感じるのである、 で、、 松岡先生の 保管している 膨大なものを 借りてきた。 いま 読んでいるが その中の1960年の 創立 10周年記念誌では 昭和25年の 3月に 開校直前の 入試をした、 それは 1期生ではなくて、2期生だった。 その少しあとに 高校2年からの編入ということで、 1期生の編入試験が 行われたらしい。。 はじめに 2期生ありき?? もう わからないが、 文献ではそうなっている、 そのわずかののち、 昭和25年の 4月10日の 開校式、入学式を 迎える。 そして、松岡先生らの 1期生の卒後30周年記念誌には (これは どうみても 松爺の編集に思える) 当時の 編入試験をうけて 合格した人たちの 出身校が 記載されていた、 県内の県立から ありとあらゆるところから 来ているとおもった。 ええ?? 昭和50年前後、谷山に住んでいた 私からみれば、 その当時でも、田舎で、なぜ 戦後の混乱期に わざわざ 転校してくるの?? と理解にくるしむが、 そこは 「松岡先生」が 当時をふりかえって レポート用紙 2枚に 手書きメモにしているので、 とにかく 判読して アップしよう。 わたしには 想像もできない 想像もできない 敗戦後の 日本のある時期の鹿児島像が うかぶが、 とにかく、自筆は 読みにくいと 書けば、ウソではないことが わかるとおもう。 さて、、この天才少年、だった 松岡少年が 昭和52年の 4月23日に テレビ出演するに あたり 書いたメモを アップするとするが、とにかく、メモはメモ 箇条書きの文章に いたるところに 端書きに 矢印がしてあって 判読が むずかしい、 大型連休中に ゆっくり と やることとする。 では、 Date: Fri, 29 Apr 2005 21:02:56 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044785] 建築探偵 鹿児島谷山もの 25 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です、 とりあえず、端書きがなくて 矢印が少ない メモで 2枚目として 預かっているモノ、 ただし、NO2とも、何もかかれておらず、 とにかく 預かったときの順番が 一番最後だったものについて、 昭和52年の 民放 毎日テレビの 八木治郎ショー出演のときの 松岡先生のメモから、 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 歴史的な背景  スタートは 戦後の教育の混乱期に @ 1つのはっきりした教育理念をかかげた。             (カトリックの宗教的雰囲気で結実) A 鹿児島は昔から男尊女ひの傾向つよく         男女共学を嫌った親が多かった。 B 良い循環・・・ いい生徒→いい生徒          東大に入る生徒は ラサールに来なくても東大に入る C 校区制で 自由に学校が選べない。   患者には医者を選べる!!   生徒には学校が選べない(先生が選べない) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 と レポート用紙に  松岡先生の あの独特のくせ字で 達筆に書かれている。 ここだけは 箇条書きだったから、こうやって 活字拾いができたが、 テレビ出演の台本(昭和52年4月23日 八木治郎ショー)の ガリ版スリの への 端書きとか メモは とてもじゃないが 活字ひろいが 難しい、 それと、メモの中の レポート用紙 の もう1枚も、 どうやって 活字ひろいをするか、、 でも、その一枚には転校の動機となったと思われる 本音が書かれていると ボクは解釈した、 そのうち アップします。 では、             Date: Sun, 1 May 2005 00:42:10 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044791] 建築探偵 鹿児島谷山もの ひとやすみ、 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 建築探偵 鹿児島谷山もの ひとやすみ、 みけです。。 同窓生以外でも 読む人がいて DMなどで、励ましいただきまして、 ありがとうございます。。 一部の読者から、是非、ブラザーハウスをみてみたいと 声がありますが すみません、 たぶん 例のフランシスコ会の本の 著作権が解決して、 同窓会で、写真が公開されて、それを オープンソースにしたい というボクの希望が かなう おそらく 1年後だろうとおもう、 それまでに みたいという方がおられれば、、鹿児島にいって、 市電の谷山行きにのって、 終点で、ラ・サールどこですか、と 尋ねていって、 徒歩五分くらい 、 谷山の今を知っている人、 おしえてください、 いま どうなっているのですか?? あと ブラザーハウス、外見をみるのは なんら 問題ないですが、 あそこの中にはいるのは、同窓生でも、聖域ですので、 その点、ご理解ください。 では、また Date: Wed, 11 May 2005 22:49:36 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044837] 建築探偵 鹿児島谷山もの 26 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です、 カトリックの略語について いろいろと 投稿、DMありがとうございます。 さて、先日、わたしが出所としている本について このMLにアップしました、 平修士という フランシスコ会の方が書いた本です。 現在の ラ・サール高校の校長先生に 聞いても知らないといっておられた。 ボクの在校時の 校長先生に DMだして 聞いたら、読んだような覚えがあるので 探してみます、と返事がきました。 で、この平修士、、 記録をのこすことには すごい能力があった人らしい、 膨大な資料をまとめて 例の本にしたと 後書きのようなところに書かれていたが、 だったら、その膨大な資料はどこにあるのだろう? と思い始めた、  といっても、わたしが 見れる立場ではないのは よくわかっている。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 GW中は とんでもない ウイルス症状で ダウンしていたが、 その間、いろいろとサイトを 見れた、 http://www.info.sophia.ac.jp/amecana/Journal/15-4.htm#_edn19 >ここみて、なんとなく 日本におけるカナダ人宣教師というのが 総論、各論でわ かったようなきがした http://www.asahi-net.or.jp/~UY2H-TRT/lsnetj/Jules/ >なるほど このブラザーが フランシスコ会の本にのっていた 抑留された ラ・ サール会のブラザーなんだ ボクの在校時とは入れ違いで 記憶にない、残念 で、、この際、ずばり フランシスコ会を調べれば良いとおもって検索した、 いやはや すごいヒット数である、 ひとつひとつ あたっていった 三毛医院近くで お世話になった フランシスコ会の神父さまのことも、 ちゃんと  カトリックの人事異動で 載っていて、驚いた。 そして、「フランシスコ会」との名の付くいろいろなサイトをみて、ここがきっと  総本山とおもわれるところに たどりついた。 http://www.ofm-j.or.jp/ よし、投稿してみよう、とおもって ゲストブックに ちゃんと 本名を英語で名 乗って 投稿してみたら、さっき、きちんとした お返事がかえってきた、 やった〜〜〜 うれしい、、、 瀬田というところの 修道院、にいけば、わかるかもしれない、 http://www.ofm-j.or.jp/friary/index.html この修道院、聖アントニオ修道院という。 そういえば、谷山に 1928年に で きたフランシスコ会の修道院も 聖アントニオ修道院だったし、 平修士の著作も、この住所で印刷された と記載さ れている。 ps、、週末 東京で 高校の同窓会があります、 校長先生、ボクの在校時の校長先生、その他 修道会の要職に 古いOBが集まるので、いんたびゅーには 絶好のチャンスとおもって 行くことにしました。 Date: Fri, 13 May 2005 01:47:11 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044860] 建築探偵 鹿児島谷山もの 27 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです、 開けごま、、と 唱えたら、本当に開いてしまった。!!! 昨日 報告した このサイト http://www.ofm-j.or.jp/ のゲストブックのところ に 電話して 直接 石井健吾神父さまと お話しました。 まず 名乗ってから こうこうしかじか、調べたいのですが、、 と 丁寧に 説明すると わかりました。 平修道士の資料を見せましょう。 となりました、 ただ、すごい量らしく、 神父さま 「段ボールに20箱ですよ。」 と言われました。 三毛「ええ いいですよ、、その中から 鹿児島のところを     探し出せばよいのですよね」 神父様「はい、」 俄然 やる気がでてきたのが ボク。 さらに、「貴方は語学はどうですか?」と聞かれ 「英語の読み書きくらいは、、」 と答えると、かなりのものが フランス語で残っています、 とのこと。。まあ なんとかなるでしょう。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 さらに、先日来 書いている 「カナダ人宣教師たち」という 平修士の著作 1988年について いろいろ聞くと、 まだ かなりの部数が残っている、 閲覧はいつでもできます、とのこと。 ただし、著作権は フランシスコ会にあるので、神父様の 一存では 決められないと 言われました。当然。。 この神父様 聖アントニオ神学院の 図書館長らしい。 図書館は 24時間 オープンで、誰でもが閲覧できるとのこと、 興味ある方、どうぞ いってみてください。 みれます。読めます。 目指せ 東京の用賀の近く 場所 瀬田 http://www.ofm-j.or.jp/friary/index.html    http://www.ofm-j.or.jp/friary/seta.html 地図 http://www.ofm-j.or.jp/oshirase/map.html 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 Date: Sun, 15 May 2005 23:55:00 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044909] 建築探偵 鹿児島谷山もの 28 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです。 昨日は同窓会の総会が東京でありました、 私の同期が当番で、関東在住の同級生は 幹事として 奮闘をし、多数の参加者で にぎわいました、 わたしはわたしで、仕事おわらせてから、飛行機のって 羽田から大手町へ、、 ついたら、まだ 懇親会ははじまっておらず、 同期たちは 幹事のいろんな分担を こなしていました。。 なあ、、かわちん。。。 で、わたしは あらかじめ 「ボクのわがまま」と同級生のMLに 投稿して、ブラザーハウスの保存運動のための インタビューに まわることを 同級生に 理解してもらっていました、 いったら、 「三毛 良いことをやっているのだから、がんばれよ」とか 声をかけられながら、20年以上あったことのない同級生としばし歓談。 そして、わたしは 鞄の中に 松岡先生の遺品である、いろいろな記念集(証拠物件 の写真) 例のフランシスコ会の本、 その他、いんたびゅーするときの 自己紹介と なにを なぜ、やっているかの、箇 条書きにした 案内文に、古い創立記念誌から 重要なところ と フランシスコ会の本から、写真 で 重要なところを 計30部 (総枚数1000枚弱)を もちあるいて、 ピンポイントで、 インタビューにまわっていました、、 まずは 引退されている元校長の修道士の先生、、すでに、メールで東京でほんのす こしだけ 会わせてくださいということで、連絡 了解済み、 総会場から 一番最後に でてこられた、、 そして、「あなたにあげるために 持ってきました」 といって「道のり   ー日本ラ・サール会略史ー」 の冊子、99ページを わざわざ いただきました、 そのあと、7月には仙台に インタビューにいきますといって 再確認をし、杖をつかれながら、ゆっくりと 懇親会場の4階まで 階段をあがっていかれた、 懇親会場は 大手町のサンケイホールで かなりでかいはずだが、 芋の煮転がし状態で、あふれんばかりの卒業生が あつまっていた、 見れば、大阪にいる後輩、鹿児島から来られている先輩など、 在校時から面識あるひとが おおい。。 そして、その猛烈な雑踏の中を ピンポイントで、これは! と思う、 OBを探しだし、聞き回った。 ラ・サールが開校する前に、小松原のあそこに住んでいたのは 七田神父さまと、 純心学園の校長の一家のMさん、、 そのMさんが OBだとは知らなかったが、どんぴしゃで 逢えた。 さっそく、こうこうしかじか、、と話をして、写真の鑑定をしてもらった 謎になっている 昭和29年焼失の木造のブラザーハウスのことは 一発でわかった。 戦前のフランシスコ会の 聖アントニオ修道院と おなじで、位置は 現在の ブラザーハウスと 聖ヨゼフホールの間にあったらしい、、 そして、真正面から見た図 横からの図などをみせて、いろいろ 解説を聞いた、修道院で「香部屋」(こうべや)というのがあって そこから失火したと聞いてきた。 ほかにも、2期生からも、あった、あったと 聞いてきた。 また、松岡先生と同期の1期生のテーブルにいって、 開校時の編入試験の逸話、なぜ 編入させてまでも、最初に 少数1クラスの1期生の学年をつくったかとか、 ブラザーハウスの写真のかずかず、、 ことこまかく解説していただいた、、 なお、開校式のあととおもわれる 裸足で ぼろい学生服を きて、初代校長の マルセルプティ先生を 1期生がとりかこんでいる写真がある。 もちろん、バックは ブラザーハウスの玄関である(いまも現存) で、、おそるおそる、、どの顔の少年が 松岡さんでしょうか? と聞くと、 最上段で 童顔丸刈りで 並んでいた生徒を指さし 「これが松岡くんだ」といっておられた、 その他、4月10日の開校式は 筵ひいて 窓辺でおこなわれたが、 その中のご自分の姿をみつけて、懐かしそうにされていた、、 なお、インタビューした1期生のお名前を聞いて、びっくりした、 初代の教頭先生の息子さんだった。 それ以外にも、管区長が アメリカから帰国したばかりという ちょっと 時差ぼけっぽい顔ながら、相手していただけた、 初対面だし、、白人だし、なぜか、オートマチックで、英語で、話していた。 現在の校長先生も来られていて、またもや しつこく、、「保存お願いしますね」 と念を押しておきました。 その他、後藤先生の同級生のテーブルで すこしだけ情報交換、、、 その場で、鹿児島にいる後藤先生に 携帯電話で連絡して、 歓談、、 「きみ、なんで、後藤を知っているの?」 「いや、、この件に関しては 良きアドバイザーなんです」 「ふ〜〜ん、後藤がついているのなら、、わかった」 といって、ボクがわたした レジメを読んでくれていた。 そのほか、鹿児島の同窓会の 要人のTさんにあったら、 「みけ、ひさしぶり、、メール 読んでいるよ、戦略しっかりしろよ」 と励まされた。 その他、大勢の人に インタビューして、また 恩師でもあり、2期生でもある 英語の坂口先生にも いろいろと聞けたし、 松岡先生の 闘病に関しては ご報告した、 1期生、2期生で非常に親交があったらしい。。 あ、そうだ、、体育のN先生が来ていて、 「おお、、みけか、懐かしいなあ」 ということになり、「実はこうこう こういうことで ブラザーハウスのことをやっているのです」 「おお、、もう一部ちょうだいよ、、」といって資料をさしあげたら、 ラ・サール学園の職員室に掲示しておくから、、、 と言われた。 なお、、あの混雑の中、ピンポイントで 多くの人に インタビューまわり 大量の資料を配るには、「秘書」がついていないと無理なんだが、 な、な、なんと、東京白百合隊の広報部長が 笑顔とともに さ〜〜と はいこれです、と手際よく資料をわたしていってくれた。 完全なボランティアなんだが、なにせ、この広報部長、 わたしの同級生の娘さんで、一緒に天草に小巡礼に回った火とだし、 カトリックのミッションスクールの世界をしっているから、とてもありがたい。 そして、校歌ではなく、讃歌をうたって 閉会となった ただ、同期は幹事ばかりだから、飯はくえていない、 で、2次会は、神田神保町にいくことになった、 何十人くらい はいったかな、、総会には来れないけれど、 2次会から、、というのも、合流した。 ひさしぶりに 楽しい会だった。 好きなことを好きなだけ 言える、仲間内だった。 さて、11時になりおひらき、、 そして 5月15日を むかえる。 つづく。 Date: Mon, 16 May 2005 01:20:01 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044911] 建築探偵 鹿児島谷山もの 29 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです、、 同窓会の総会には出たモノの 実は私はたばこの煙に実に弱い、 なるべく避けたつもりだが、のどがやられた以上に 自律神経が興奮したのか、午前3時まで眼が冴えてしまった。  ブラザーからいただいた 「道のり」 という 修道会の 日本における歴史の冊子を一気に読んでしまった。 そもそも、ラ・サールというのは人の名前で、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%90%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB 1651年に フランスで生まれた人で、男子の集団教育の修道会であり、 ヨーロッパ社会では  1 はじめて母国語による教育 2,はじめて集団で教育 3.師範学校をはじめてつくった という業績があり、教育での 奇跡を起こしたということで 1901年?列聖されている。 そういうかけで、 教育活動に特に男子の教育に熱心な修道会なのである。 布教活動がはじめて 認められたのは、1815年 ブールボン島(マダガスカル東800キロ)だったらしい、 アジアにやってきたのは1852年のシンガポール、マライから はじまっていく、 1887年 3人の修士が派遣されたが、日本で病死し 一人は神戸の外国時墓地に眠るという。 さらに、日本は1889年に 長崎に2人の修士がきて、 この地に学校を作ろうとしたが、すでに マリヤ会が 海星をつくっており 2つは無理とのことで、代替地に名古屋をいわれたが、総長が断ったという いきさつがあるらしい。。 そんなこんなしているうちに、アジア各地では 教育系の事業がおこなわれていた、 その一方、日本のカトリックで 函館地区は カナダの ドミニコ会にまかされてい た。 ドミニコ会が 函館の地で なかなか事業がすすまず、話がやってきたということら しい、 そして、昭和7年、 カナダから ラ・サール会がやってきて、まずは函館に住む。 当時の 「要塞地帯」の土地を 買収、測量などしたため、 結局、憲兵から、許可がおりず 学校設立は暗礁にのりあげた、 また、当時の 仙台の旧制2高や 山形高校などで 一部の修士が 語学の教鞭を とっている。 そして、戦争を迎えたわけで、 日本に派遣された 多くの修士たちは 旧満州国にも 赴任していって、 教育をしていたので、何人かが 抑留され、日本まで送還され、 山北というところで収容所生活をおくっていた。 その中には 先日 ご紹介した ベランジュ(Bro Jule)や いろいろと 個性のつよい修士たちがいた、 戦後、修道会は、日本での事業の再開をはじめる、 まず 東京に修道院をたてた、 そして、当時の戦争孤児、浮浪児の施設として 仙台に 「光が丘天使園」というのをつくった、 当時のNHKの連続放送劇、「鐘のなる丘」   みどりの丘の 赤い屋根   とんがり帽子の時計台   鐘がなります、キンコンカン   メイメイ子山羊もないています。   風がそよそよ丘の上   黄色いお窓は俺らの家よ、、 という歌詞に はじめての事業としての 光が丘天使園の 写真が 載った新聞記事がでて、 がぜん、注目されたらしい。。 ここを巣立っていった人に 作家 井上ひさし氏がいる。 外国人修士(ブラザー)たちの 熱心な 事業に多くの子供たちは 感銘をうけて 巣立っていった。 ブラザーの ベランジェの記録 http://www.asahi-net.or.jp/%7Euy2h-trt/lsnetj/Jules/index.html を 先日来 あげているが、読んでももらえれば、いかに 修士 ブラザーたちは 熱意をもって 生徒 子供に接していたかは わかるとおもう。 いずれ 松岡先生の テレビ出演のときの 手書きメモを アップするが、 当時の 「松岡少年」のこころにも、修士(ブラザーたち)への 感謝の表現を いろいろと見れる。 さて、、5月15日 わたしはなんとなく、この小冊子「道のり」をよんで 心がはずむ、 いままではっきりとは知らなかったが、どうも、この日は、 聖ラサールの日らしい、、  (誕生日ではないのだが) で、、小冊子にも書かれているし、いま ローマの本部のサイトをみにったら ちゃんと書かれている。 5月15日は feastなのである。 http://www.lasalle.org/English/Events/2005/15may05.php#0 ボクははじめて知ったが、なんだか、うきうきしてきた。 せっかく東京にいったのだし、 ベランジェを モデルにしたという 「ルロイ修道士」の お話、、である、 井上ひさし氏の 「握手」の 話を思い出し、 昨日の秘書役のお礼に 東京白百合隊の面々に 上野の 精養軒の プレーンオムレツを食べに行こうと 誘った。いや 招待した。 なにせ、このオムレツ、 光村図書という 中学校の国語の教科書の65%のチェアをしめる 会社の 中学3年の 教科書にでている 有名なおはなしらしい。。 ルロイ修道士が 「わたし」に 指を立てたり 交わらせたりしながら、 この精養軒で 修道士と 「わたし」の 会話が進行する、。 そして、多くの中学の国語の先生が いちど このレストランにいってごらんなさい というらしい。。 だったら、今日は 特別の日だし、鹿児島のことは2の次にして、仙台のこと、修道 士のことを 思い浮かべて、 その オムレツとやらを 食べに行ってみようとした。 精養軒 精養軒と 目的地へ、 で、玄関で、「オムレツを食べに来たのですが」と尋ねると 「当方にはそのようなものがありません。」 えええ???  だって、中学校の教科書にでているのだよ、、 横で、しらゆり隊の広報部長が 習った習ったという おかしいなああ、 この店員さん知らないだけかということで、 はいって左側のグリルにいった、 上野の森が一望できる 眺めのよいところで、たしかに、 ルロイ修道士と 「わたし」が 会話するのにはもってこいのところである、 ただ残念ながら、オムレツもオムライスもなかった、 とほほほ、、、 とはいえ、、今日は feast 5月15日である、 天草の話をしたり、昨日の 三毛建築探偵の インタビュー活動の実態が 広報部長から 白百合隊隊長に報告され、なんとも言えない雰囲気だった。 最後に 人差し指を 教科書のとおりに 交差させて 妙に うきうきして 出てきた。 さて、せっかくの 休み、、トビで アールデコ展がやっているし 久しぶりに 国立博物館の常設を見るかとおもって 一緒にまわってもらった 天草では 過分のご好意をうけたので、最後は東京駅にいって 辰野金吾の こてこての煉瓦建築作品の 東京駅そのものをみて、 中のホテルの レストランで、晩餐会をした、 ここは独特の 雰囲気なんだけれど、もうそろそろ のぞみの 時間とおもってきりあげて、、丸の内南口にてこてこ歩いていったら、 「ねえねえ おじさま、、ここみて、ここにも、精養軒があるよ」 ええ?? 「ほら、、メニューに ここは オムライスがあるよ」 わたしは 愕然としたが、でも、妙にうれしくなり、 右の人差し指をたてていた。 あれは 井上ひさし氏の実話ではなく、短篇小説なんだし、 それに 今日は ラ・サールの祝日だ。 こんど 東京にきたら、まっさきの 東京駅丸の内南口の 精養軒に はいってみようとおもいながら、のぞみに飛び乗ってかえってきた。 どうも、、ブラザーハウスのいろいろなことを調べるのには、 今後 世田谷区にある フランシスコ会の聖アントニオ神学院の 図書館かよいをしないとけないし、その往復に いつでもよれる。 とにかく、 ブラザーハウスの保存をしたい それを 楽しみながらできる なんとも言えない 幸せが また、ひとつやってきた とおもう。 Date: Wed, 1 Jun 2005 03:59:49 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045163] 建築探偵 鹿児島谷山もの 30 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです、、 着々と 件名の リサーチはすすめております、 1週間ほど PCが壊れていたり、 先日の たばこ騒動で、不眠が続いたりで ペース乱しましたが、 ゆっくり 復帰、、 で、その29の一部のつづき > 1887年 3人の修士が派遣されたが、日本で病死し > 一人は神戸の外国時墓地に眠るという。 この人 ラングーンとか 香港で ミッションを行い 横浜視察に 日本を目指して来たモノの 神戸寄港のときに 赤痢とわかり、 神戸の 宣教師にひきとられましたが、 その直後 入院などまでしたものの 5月10日に 帰天されています、 日本に 命あって滞在したのは 指の数で数えれるほどの日数で 殉死というところでしょうか、、 きっと無念だっただろうし、横浜までたどり着いていれば ミッションの歴史は変わっていたと思います。 神戸の外国人墓地に埋葬とのことですが、 当時の墓地は いまの神戸市のど真ん中になり、 戦前、 六甲の山の上に 移転されました。 管理区域になっていて 私のような一般人は入れません。 50カ国以上、20以上の宗教の外国人が墓地だそうです。 お名前は シプリアン修士といいます、 墓参に行こうにも 管理区域なので 無理とわかりました。 墓の存在の有無すら 調べる方法は わからないままです、 さて、DMで ブラザーハウスとやらの写真を見たいとか 古い写真を持っているのなら、どこかにアップしてくれ など ごもっともなご意見がくるのですが、 ありそうでないのが、ブラザーハウスの写真。 きれいな写真が写っている 某サイトの引用許可を お願いしているのですが まだ OKの返事もらっていません。 古い写真は フランシスコ会の著作権があり、ラ・サール会のブラザーから 著作権のお願いしてもらう以外に こうなったら 直訴かな、、と フランシスコ会の 本部に アポとって おでかけしても良いと 思い始めてきました。 六本木らしい。。 いろんな 医学研究とか いろいろしてきたけれど、 今回の この ブラザーハウスの研究は これまで 味わったことのない 心地よさと 周囲の励ましがあり、こんなに 研究が楽しいと 思ったことははじめてです、 別段 学位がほしいとか 業績がほしいわけでもないのですが、 どうして 「建築探偵」という言葉が生まれてきたのかがわかってきました。。 では つづく。