鹿児島ラ・サール高校25期の三毛紀夫氏(大阪支部)が、「地域医療研究会ML」という、同6期の服部行麗氏(谷山で内科クリニック開業)が主催する全国規模の医療系MLに投稿した、ラサールのブラザーハウスの建物の由来に関するメールと、それに対する21期の後藤正道の返事をまとめたもの。なお、文中に出てくる「松岡先生」とは、2004年12月に亡くなられた1期生(大阪支部)。 lskghqへの転送については、三毛紀夫氏の了解済。 Date: Sun, 3 Apr 2005 14:51:37 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044523] 建築探偵 鹿児島谷山もの1 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です。 本来、このMLよりも、私の母校の同窓会MLに投稿するべき 題材かもしれませんが、 1.私をこのMLに紹介してくれた、母校の大先輩の松岡先生の 思い出のひとつとして、 2.そして、私や同窓生が巣立っていった鹿児島 特に谷山の人たちへの感謝、>>このMLには 鹿児島や 谷山に関連する人がおおい、、 という2点を考えて、まず、このMLに投稿します。 同窓会MLや同窓会雑誌については このMLでふれるべきではないのですが、追って、詳細に調べ上げてなんらかの形にして残していくつもりです。 まず 4月3日を記念して、 昭和47年、高度経済成長期まっただかの日本 わたしにとって、その年の 4月3日は人生の大きな転換の日だったことを 33年たった 今日 ふりかえって 思い出します。 その日の朝、中学3年をむかえ、本来なら 受験勉強の1年をむかえるはずだったのが、 ひょんなことから、大阪を離れて、鹿児島までやってきて 鹿児島の谷山にある ラ・サール学園の編入試験を受けました。 午後には もう取り壊されてなくなってしまった カフェテリアと体育館の 間の掲示板に 編入試験の合格発表がはりだされ、 16人?受けたうちの 2人の合格者の名前にわたしがはいっておりました。 以来、親元はなれ、自由で いろいろな意味で多感な学生生活を送り、 母校のことは 今でも感謝している次第です。 で、この学校、 1651年 北フランスのランスというところの de La Salle家で 生まれた 聖ラ・サールという人がはじめた男子教育が目的の カトリックの修道会の開設、運営です。 (教育における業績を認められ1900年 列聖されている) 日本には 昭和7年 函館地区にて、まず、布教活動を始めましたが、 戦争の影響で、学校は開学されず、 中断されています。 戦後、函館は なんら事業はなされず、 仙台にて 孤児院経営と 東京の日野に修道院を作り 修道会が カナダ人の管理下(管区が カナダだった) 運営されています。日野は残念ながら 近年売却。 鹿児島には、昭和26年、ザビエル来日400年にあわせて、 開校され、そのときの1期生が 故松岡先生になります。 生前 松岡先生から 直接お聞きした話は、 1期生は 高校2年からの入学だった、 同時に2期生が 高校1年生から入学、 小松原と呼ばれる 谷山の浜辺の 現ブラザーハウスの 前で 入学式が開かれ、 当時、占領下、日の丸の掲揚すら許されなかった中で、 カナダ人修道士たちの 考えで、日の丸が 掲揚されながら、 入学式で、参列した父兄たちは、日の丸をみて、涙を流したと 語っておられました。 開学以来の歴史は 多くの同窓生に語り継がれ、 また 多くの同窓会雑誌に 少しづつ掲載されていますので、 おおよそ わたしも知っているつもりです。 ただ、どうして、谷山の地だったのか、 そして、入学式のときにはすでに存在していたという ラ・サール学園の ブラザーハウスの オリジンが 不明でした。 8年前、たまたま 平日に 母校を訪問。 いつもと変わらぬ 光景ですが、校舎の一部は改築され、 当時はかろうじて、カフェテリアとかが残っていました、 懐かしさのあまり、ブラザーハウスの回りをあるいていると 漆喰か コンクリートがはがれた 煙突部分には 日本ではあまりお目にかからない 独特の朱色の煉瓦がみえます、 ここで、同窓生でもあり、自称建築探偵でもあるわたしは ぴぴ〜〜んときて、 これは 古い、由緒があるに違いないとおもって ゆっくりゆっくり調べ始めました。 多くの煉瓦建築、鹿児島の古い建築リストをみても、 また、九州地区のほかの多くのカトリック系の教会をみても、 類似の物は現存すくなく、なんら手がかりがありません。 そこで、偶然、連絡とれるようになった、 私の在校時の 修道士(元校長先生)に メールを出し、 こうこうこうだから、由来が知りたいと書きましたら、 戦前は フランシスコ会のものだった。 昭和の7年に カナダから 上海経由で煉瓦などを 輸入して たてたということまで判明しました。 そのあと、その言葉を頼りに フランシスコ会の 聖職者に インタビューして、由来、歴史しらべを ゆっくりゆっくりしていました。 その間、集めた情報の断片から、 母校が谷山の地に開学する以前は 幼稚園があって、 現在のブラザーハウスはあった。 昭和20年、鹿児島純心学園の卒業式の写真は 生徒多数とともに バックは 現在のラ・サール学園の ブラザーハウスのものであることがほぼ間違いない。 鹿児島純心学園は 戦争中は谷山に引っ越しして 現在のラ・サール学園の地で 運営されていた。 などなどが、判明してきました。 ここで 鹿児島純心学園の シスター八田のところを見てください http://www.k-junshin.ed.jp/hatta.html 写真のところの 説明読んで 拡大のクリックをオスと 現在の ラ・サール学園のブラザーハウスの 入り口と まったく同じ背景の建物の前とわかります。 昭和20年とあります。 この時点で、昭和20年に ブラザーハウスは 存在していました、 開学 の数年前になります。 もっと古いはなし つまり 谷山の地にフランシスコ会がやってくる  は 以後つづきます。 ではでは。 Date: Thu, 7 Apr 2005 03:04:00 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044587] 建築探偵 鹿児島谷山もの2 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) Subject: 建築探偵 鹿児島谷山もの2 三毛です。 つづき、、 ゆっくり ゆっくり 谷山の 修道院のことを 調べています。 1920年代に 奄美 鹿児島地区の 布教活動が カナダ人のフランシスコ会の手によって、はじまっています、 いま、調べています、 当時、谷山の小松原というところに 木造の建物があり、 島津藩の別邸だったらしい。 その建物、周りの土地5000坪を フランシスコ会の 当時の 鹿児島 奄美地区 の 宣教師が 表向き 購入したことになっています、 ただ、調べに調べてみると それだけの土地を買うのには フランシスコ会の 派遣された母国とか 鹿児島での 寄進などでは ボクは 無理だろうと思っていましたら、 やはり、ある兄弟 (9人のうち 長兄のみ結婚、あとは 修道士になる) が お金の出所らしいです。 1920年代の話になります。 いま、一生懸命に 当時の記録をのこした、フランシスコ会の資料を読んでいるので すが、 時系列の整理するのに 自分のあたまの中で時間がかかっています、 そして、当時の 木造の修道院は わたしの 卒業した学園の 創立20周年記念誌の グラビア写真の ページを調べると 昭和20年焼失となっていました、 そして、わたしが 気にしている 通称 ブラザーハウスというのは フランシスコ会の印刷物の記録、鹿児島純心学園のサイト 母校のラ・サール学園の 古い資料の それぞれの写真の部分を 細かく 照らしあわせて 1930年に建てられた 建造物だというのが 徐々にわかってきました。 本来なら、松岡先生などに 聞いて、検証したいところですが、 当時のことを 話してくれる人が 会いに来てくれれば、 すべてお話します、 となり、ゆっくりゆっくり 歴史をときあかしていくつもりです。 偶然ですが、Popeが死去されました、 私自身、直接の影響を受けたことはないのですが、 古い修道会の資料をよむに及んで、 たまたまなのか、なにかがあるのか、、 まるで おみちびき、でんどうのように 抵抗なく、すべての カトリック系の修道会の 記録が読める現在なので、 ひろく メンバーにしってもらうために ひとつの 建物の 建築探偵をつうじて、 知り得たことを 書きます。。 鹿児島アリーナにある、鹿児島監獄跡みないな ことが ブラザーハウスで 発生しないように、 書きますが、カトリックに関係のないヒト、 同窓生でもないひとにも、読みやすいように 書いてみます。 つづく。 Date: Thu, 7 Apr 2005 03:43:39 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044588] 建築探偵 鹿児島谷山もの3 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) Subject: 建築探偵 鹿児島谷山もの3 三毛です。 建築探偵の おもしろみというか 徹底した姿は 東大の 藤森照信教授の いろいろな本をよめば わかるとおもいます、 1.歴史的に価値のある建築をみつけだす、 2.見つけ出したら、写真を撮る、 3.見つけ出したら、由来、歴史、設計者などをしらべる 4.その子孫がおられたら、インタビューしにいく、 などなどです。 そして、建築探偵の本だけ 読めば、すでに発掘、みつかって きれいな本の中で紹介された、エッセンスだけ読んで、 楽しむのが 通常の楽しみ方ですが、 わたしは 偶然、藤森せんせいが、まだまだ 建築探偵の はじまりだったころ、いろんなものを 東京の町並みからみつけだして、建築学会で 定説とか、概念や 流れをかえていく 若き日に たまたま 大学の授業を 母校の筑波大学でうけました。。 影響がつよすぎるので、どうしても、実践したい。 医者である、そこまで 実践するだけの 時間がない、 しかし、発想をかえてみる、 何気なく 路上で観察できるものに 建築探偵の 基本がある。 それをきちんとしらべあげて、読むヒトが納得すれば、 かつ、その建物が 古ければ古いほど、 また、報告されていない、文献みても載っていないほど、 やる気がでるのがわかるのです。 で、、先日書いたように、ある日、母校をなにげなく 訪問して、母校の いまのブラザーハウスの 煙突の セメントのはがれたところを なにげなくみたら、 おお、、煉瓦、、 こいつは 古い、 昭和26年に開学なのだが、 この建物は それよりも 煉瓦みたらい古いというが びび〜〜んと 脳にきました。 ただ、断片的に かつては 純心学園がつかっていたとか、 戦前は シスターか、ブラザーがいて、なんらかの 官憲の監視下にあったなどの 話を 耳の奥底で 聞いたことがあるので、 おそらく、開学以前にも かなりの歴史があり、 vintage ものの 建物と わかりました。 さらに 建築探偵の原点にもどり聞き込みをしていくと フランシスコ会が 昭和6年だか、 7年に 谷山の小松原に 煉瓦をカナダから船で 上海経由で建てた とまでは わかったので、 次なるは フランシスコ会に 聞く。 ということです、 これって、案ずるよりも産むが易し、 不思議と そういうときに限って、、おみちびきか、 何かわからないのですが、 フランシスコ会(こまかくわかれているので、詳細は いまふれず)の シスターとか 神父様にあうのですよね、、 で、わたしは こうこうこうで、、いま 調べています、 お願いします、なにか カナダ関係の そのフランシスコ会の 情報は ありませんか?とシスターに と聞いたら、ある宣教師の お名前があがってきました、 その方のお名前を 現役をしりぞかれた、ラ・サール会の修道士さんに 聞いたら、昔は 谷山の母校の ブラザーハウスに 良く来られて、懐かしそうに されていました。。 と返事あり。 さらに、その情報をたよりに たまたま 知り合った フランシスコ会の 神父様に ボクはこういう経歴で カナダ人のフランシスコ会が 戦前に建てた 鹿児島の谷山というところの いまの ラ・サール学園の ブラザーハウスの 過去をしらべています。 お願いします、と 深々と 頭をさげて、説明したら、 非常にその神父様が親切で、わざわざ 1988年に 発行された 結構 古いフランシスコ会の 写真がたっぷりはいった 本を わざわざ 見せて頂きました。 その場で、コピーするか、デジカメで撮影するか だったのですが、正直に、ください、というと、 そのつもりで、用意しました。 さらに、教会の封筒に 三毛先生とまで、 書いて、いつでも渡せるようにされていました。 わざわざ 私が建築探偵として 調べようとしているところに 栞をいれておられて、すぐに 見せて頂きましたが、 その場では 厚い記録集の ちょっとだけ 確認しえただけでした。 いま、ゆっくりゆっくり 読んでいます。 神父様には 限りなくお礼をいって、 神父様は ボクに聖書をよみますか、 と言われましたが、ボクは聖書は読みません。 それよりも、ボクの使命は きちんと こういうこと 伝えて、きちんと 同窓会、修道会に 残していくことです、 (実は わたしが 聖書を読む気になったら、さきに  ローマ神話、ギリシャ神話よんで、それから、旧約聖書  よんで、それで、ようやく 新約聖書よむでしょうが、   余生と余勢で、、コーランまで 系統だって 読むだろうと    思います、 ただ、、仏典となると、ボクには読むだけの     根性、意欲、知識がありません。 そこまでは 神父様に     お話して、説明できませんでしたが、      さすがに、神父様も、信者でもないのに これほど、      キリスト教のこととか、概念とか、教義をしっている      人間は特殊であり、伝えてもよいだろうと思われたことでしょう       なお、神父様との会話は 日本語8割くらいと英語2割で       チャンポンで話しましたが、非常に特殊な日本人と       思われたに違いありません。) さて、、ちょっと 今日は どうしても書きたいので、 その4まで 書きます。 つづく Date: Thu, 7 Apr 2005 04:30:05 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044589] 建築探偵 鹿児島谷山もの4 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) Subject: 建築探偵 鹿児島谷山もの4 三毛です。 今日は 連続で書きたくなる気持ちです、 テレビでは コンクラーベのことを 報道していました、 死去された、Popeには わたしなりに 思い出があります、 谷山ものとは 派生しますが、すこし 脱線します、 1984年、春、東欧を旅行したとき、 クラコフという ポーランドの古い土地にいきました、 クラコフか プラハか、 というぐらい 古い古い大学があるところです、 (大学の定義がむずかしいが、1200年代のはず) クラコフは 死去された法王の出生地で クラコフ訪問の目的は アウシュビッツ見学だったのですが、 なぜか、クラコフ郊外の 法王の生まれたところ、 というところに連れて行かれました、 そこには PLATEがあり、生まれたところ、 と英語で刻まれていました、 クラコフみたいなちっぽけな でも、古い町に ローマからだけは 直行便が飛ぶというのが なんとなくわかりました。。 ただ、わたしの泊まったホテル、フロント、タクシーの運転手は いまから 思えばすべてユダヤ人でして、 のちのち シンドラーのリストをみて、 まったく同じ光景のところに泊まってきたので、 クラコフの印象は  法王の印象ではないのですが、 ポーランドのカトリックというのは ものすごく メジャーだったようです、 先日、訪れたフランシスコ会の神父様の案内でみた 教会内部に ボクには不思議にみえる キリストの絵がありました、 通常のキリストの絵は バックにパレスチナのいろいろな 光景が描かれているのがあるのですが、 その絵は バックが ほぼ 黒で、 不思議な絵ですね、 と正直に 神父様にいうと、 これは ポーランドのカトリックの絵を模範に描いてもらいました、 とのことで、へえ、、、 ボクは ポーランドもいきました、 というと 少しだけ話は進みましたが、 ご当地の 旅行の大半は ユダヤ人の関係で 国営旅行社もいまから思えば、ユダヤ人関係だったなあ、、 とそれとなく返事すると おわかりになっていたようです。 死去された、Popeは 占領下、地下活動を通じて、 カトリックの活動をされた、と 新聞記事で読みました。 当時の占領下の 聖職者は いろいろな資料をよむと 日本でも 国策にしたがって、組織をかえていった ある宗教、などもあり、 いまだに それは よくなかったと 謝罪している宗教もあれば、 Popeのように 地下活動して なんとか生き延びていった 人たち、宣教師もいます、 ここで、触れさせて頂きます。 私には 単に 建築探偵、お世話になった母校の修道会と 同窓会の 記録のため、 と わかっている世界だったのですが、 戦時中の日本は アメリカ人、カナダ人の宣教師は、 敵国とみなされ、ほぼ すべての宣教師は 1941年12月8日をもって 抑留されています、 抑留が円滑に 開戦の日に行われたというのは おそらく、かなり前から官憲の監視下にあったことが ボクは 感じるのですが、いまとなっては わたしには 抑留された事実、そして、一部は 交換船で、 本国に送り返された、でも、一部は 1カ所に集められ 抑留された という 記載をみつけだしました、 宣教師たちは ウソは書きませんし、ウソはつきません。 その記録は 日本人が書いた物でした 丹念に フランシスコ会の記録をよむと 抑留された、カナダ人やアメリカ人は なにも、フランシスコ会のみならず、わたしのしっているいくつかの 修道会の名前があり、 そこには ラ・サール会という名前が載っているので、 ええ?と思いましたが、考えてみれば、 函館の地にはじめて、カナダからやってきて 土地かって、学校つくろうとしたのが 昭和の6年か 7年なので、 当然、カナダ人ラ・サール会修道士がふくまれていてもおかしくはありません。 さらに 読んでいくと、驚いたことに 旧満州国にいた、カナダ人 アメリカ人 宣教師たちは 日本に連行され、一カ所にまとめて 抑留されていたそうです。 満州国の ラ・サール会という たった一行の文を 非常に詳細にかかれた フランシスコ会の記録からみて、 おどろくとともに、誰なんだろう? という素朴な疑問を感じました。 固有名詞の 列挙はさけますが、タイプライター打つのが うまいのは 誰のおかげですか? とこの2行かけば、わかるヒトにはわかるとおもいます、 さらに、もっと驚いたのは、 アメリカの憲兵隊が、終戦後 抑留された アメリカ人 カナダ人の 宣教師たちに インタビューしたみたいですが、 インタビューする前に、事前に インタビューでは抑留中のことは はなさない、という 取り決めがあったらしく、 それを 抑留された カトリックの各修道会の 宣教師、聖職者たちは みなさん 守って、たまたま それをしっている日本人聖職者が 記録として残されています、 別段、Popeの コンクラーベと 根比べを 比喩するわけではないのですが、 今日だから、逆に かけると 思って この秘話を投稿します。 そういう秘話のおかげで、多くの修道会の建物がのこっていっています。 プロテスタントは 申し訳ありませんが、ボクの 活力、意欲をもってしても そこまで 調べ上げるだけの 素地がボクにはありません。 なお、、こういう文章をよまれて、三毛はおかしくなった、憑依されていると 思われる読者もおられるかもしれませんが、、 ここで、ひとつのたとえをします。 アメリカ映画 「フィールドオブドリーム」を ごらんになったことがあるでしょう か? あの主人公は ある日、回想して 父の姿と 父とした野球というものを 追い求め、全米各地を まるで 憑依されたように廻っていく 興味深い ストーリーですが、 それの類似とおもってください。 同窓生 1万人の目にふれることを するわけですから、 いろいろな資料あつめ、インタビュー、証拠としての 写真あつめ これには あの映画の主人公並みの なにかが いります。 信じられないかもしれませんが、、 天草小巡礼で、ひょっとしたら、、鉄川氏が 鹿児島谷山の古い ブラザーハウスを作ったのかな、というとんでもない仮説が こころの片隅にありましたが、まったく様式、 構造が異なるのを 眼で確認していたのも 事実といえば、 三毛、あんたは、いったい何を考えているの? と言われるかな、 でも、心地よさがあったといえば、ウソではありません。 では、おやすみなさい、 なお、同窓生へ、この件、いろいろと みなさんの知らない事実を ときあかしていっていますが、決して愉快でやっていることではないし、 いずれ、もっと きちんとした 活字として、印刷物で 報告できるように、ゆっくり ゆっくり 関係者の同意を とって 報告します。 なお、、戦前の谷山の小松原の 聖アントニオ修道院の 情報をお持ちの方、申し訳ありませんが、 DMで 情報ください、 もちろん、MLにアップされても結構です。 同窓生以外に 谷山を知っている方なら、誰でも welcomeです。 では、、つづく、 Date: Thu, 7 Apr 2005 06:55:45 +0900 From: Masamichi Goto Subject: [LOCALMTRET:044591] Re: 建築探偵 鹿児島谷山もの4 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 後藤正道@鹿児島大学です。 At 4:30 +0900 05.4.7, mike norio BB wrote: > 死去された、Popeには わたしなりに 思い出があります、 昨夜、鹿児島のザビエル教会での追悼ミサに行ってきました。 献花の際に、ヨハネ・パウロ2世の映像が全く解説をつけずに正面の壁に映写 されていましたが、その中の所々に第二次世界大戦中の東ヨーロッパの写真や 映画が挿入されていました。ほんの短いショットなのですが、あの頃のユダヤ 人の歴史を高校時代に少し勉強したことがあるので、はっとさせられました。 > 満州国の ラ・サール会という たった一行の文を > 非常に詳細にかかれた フランシスコ会の記録からみて、 > おどろくとともに、誰なんだろう? という素朴な疑問を感じました。 > 固有名詞の 列挙はさけますが、タイプライター打つのが > うまいのは 誰のおかげですか? 私もタイプをなんとかブラインドで打てるのは、あの恐ろしく古いタイプライ ターでfff, jjjをオディロ先生に習ったおかげです。 ジュネーブでフランス語に苦労しても、なんとなく懐かしさを覚えるのは、カ ナダ訛りのフランス語を話す先生達が多かったためでしょうね。 戦争の狂気の中、マニラをアメリカ軍に奪還される直前に日本軍が行った破壊 活動の一環として、マニラのラ・サール大学で16名の修道士が聖堂で虐殺さ れています。ひさしぶりに、その記録の日本語訳を読み直しているところで す。 > なお、、こういう文章をよまれて、三毛はおかしくなった、憑依されていると > 思われる読者もおられるかもしれませんが、、 三毛さんと会ったことのある私としては、まったく普通の事です。ご心配なく。 故・松岡先生がとても喜んでおられると思います。 続編を期待していますよ。 -- ======================== Masamichi Goto 後藤正道 masagoto@mb.neweb.ne.jp ======================== Date: Fri, 8 Apr 2005 23:42:43 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044605] 建築探偵 鹿児島谷山もの6 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) Subject: 建築探偵 鹿児島谷山もの6 みけです、 Popeからの使節団と 谷山の つながりを投稿しました、 ただ、いろいろと自信がないので、 敬虔なカトリック信者の 後藤諸兄にお願いして、 記録写真の鑑定をしていただきまして、 検証していただきました。。 後藤諸兄は 1.写真部 2.カトリック信者 3.病理医 ということで、特に 写真の細かい判定というか、 所見を ご教示いただけるのは まるで、病理の報告書を読んでいるような メールでした。 で、、気が付けば 当たり前のことなのですが、 ボクは 英語の口語で、死去した Popeが パパと言われていたのは 良く覚えています。 Papaと Popeなら、確かに一字ちがいだ、、 と 後藤諸兄にいわれて、はじめて 気づきました。 パウロが ポールになるのは よく知っています。 ミハエルが ミッシェルになり、マイケルになり、マイクになり、 そして、mikeとかいて、ミケと読むと 書けば、かなり脱線です。 さてさて、その谷山の Popeの使節団が訪れた施設と わたしが、いまの ラ・サール学園の ブラザーハウスが 同じだという 点、、 いま いろいろと写真鑑定して、照らし合わせて、検証しています。 ひとつ わかったのは、ラ・サール学園が 開校する前の年に 鹿児島市山下町の ザビエル教会を設計したという ご縁で 七田という神父さまが ある人物を ラ・サール会の ブラザーに 紹介したこところから、 開校する前のいろいろな改装、開校後のいろいろな 校内の建物建築の 設計には 衛藤右三郎 という 衛藤設計事務所長が 以後 関与していくことが わかりました。 ちなみに、ネットで この方の名前を検索すると 衛藤右三郎氏は http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/page9rx01a.html ここに出てきます。 ただ このURLにでてくる ラサール神父は ドイツ人で、わたしの 知っている La Salleとは スペルが異なる。 かつ、イエズス会ですね、 (広島は イエズス会関連が多い、、) さらに、 http://www.protgalaxy.com/compe01.html でも、世界平和記念堂の コンペティションにもでてくる。 ちなみに 鹿児島 衛藤、設計という3語で 検索すると 類似の名前が 現在でも 衛藤中山設計事務所として ヒットするが 同系列なのかどうかわからない、  (谷山小学校の 体育館など 設計している) 衛藤右三郎氏の 学園創立10周年記念誌への 投稿を読むと、 開校の前年、既存の 煉瓦建築の建物(これが わたしは いまのブラザーハウスと推定)と 石の土台の木造の建物(昭和20年代に焼失した 古いブラザーハウス)の 改装を依頼され、 急いで、図面を引いたという 思い出話が、1960年に 出版された 記念誌に 載っている。。 1930年に フランシスコ会が建てたという 谷山の 建物とは 一部 確かに違いがあるが この記載が正しいとすると やはり 衛藤氏の 改装の手により、同じ物とみる さらに、七田神父の 思い出話にも、 でてくる、、 七田神父は 兄弟で 神父され ポール七田神父が どうやら、 戦後 谷山の地の 旧フランシスコ会の建物群を 預かっていた、 そこには 純心高女が 入っていたなどの 記載を見いだすが、 その一方で、いまの谷山から 想像もできない 自然と田園風景の記載が見受けられる、 小川がながれており、その小川をわたったところに 建物があったと記載あり、 いまから、いろいろな写真を 検証して、 また、インタビューできるヒトに 聞き回って、 建築探偵としての 醍醐味を味わってみたい、 さて、七田神父が 戦後 管理していた ラ・サール学園の 前身の地は とてつもなく 自然にあふれたところであり、 当時の 谷山に住む、松岡先生への 谷山の自然への 思い出話を 見いだした。 奥様から このミケが 文章にして なんらかの 形でアップしますということの 了解をとっているので、 その ところは いずれ 人間OCRして、 アップしてみたい。 さて、、その7では、  わたしの勝手ながら、 母校の開校のころの 様子を伝えてみたい。 というのも、滅多に過去のことを話さない 松岡先生が ボクが いろいろと 開校のコロを聞けば、 不思議と ボクには 思い出話を断片的だが してくれた。 では その7に つづく Date: Sat, 9 Apr 2005 01:02:22 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044606] 建築探偵 鹿児島谷山もの7 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) Subject 建築探偵 鹿児島谷山もの7 ミケです。 つづき、、 文頭で まず イノセントのつもりで 投稿していることを ご理解いただきたい、 このMLには 鹿児島県内の 県立高校の卒業生が多いのは いくら わたしであろうと わかっています。 決して どの高校がどうだ、ということを 書くつもりはありません。 それよりも、なぜ?? という ボクの素朴な疑問から、 人間OCRをして、自分のコメントを展開させていただきます、 ちなみに、私の岳父は 松岡先生よりも 1学年上の 鹿児島の某県立高校の卒業であり、「マスオさん」のボクには 「できたころはねえ、、どうして 行くのだろうと  思ったよ」と 半ば 否定的に 言われたことは   事実なので、よく わかっています。 ただ、素朴な疑問もあり、このシリーズで書きます。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 では、 1970年に発行された 20周年の記念誌より、 みつけだしました。。 3ページより、 昭和23年  鹿児島にカトリック系の学校を設立される様にいろいろの人が運動したが、特に出 口教区長と七田神父は東京又は仙台のラ・サール会本部まで行き、熱心に依頼した。 ラ・サール会としては 高校設立の候補地として函館 北九州・仙台等を予定してい たらしいが、鹿児島に七田神父の管理する旧修道院(現在のブラザー宿舎)を五千ド ルで買収することになり谷山に設立することが決定した。 昭和24年 10月 グラン・マルセル氏来鹿、旧修道院を教室に改装するように衛藤氏と打ち合 わせをなす。以来、本校の設計は衛藤氏がほとんど行った。 (ミケ注、 マルセルプティ氏とは別人 プティ先生は初代校長      ここに 衛藤氏という名前がでてくる) 中略 昭和25年  3月  (略、途中から) 南日本新聞は本校の紹介を記事として大きく取り扱ってくれた の で、入学試験には 優秀な生徒が多数集った。 3月10日  1年入学試験 志願者282名合格者160名、以下略、、 25日に高二年の編入試験は○○・××等の優秀な生徒88名の志願者の中から30 名を採用する (入試の場所は 純心高女を借りて 行った。(後注1) 開校以後 4月10日 開校式、入学式は海岸のベランダ(現在旧館の音楽室の前)で行われ、 占領下であったが外人経営であるため占領軍への気兼ねも不必要で、日の丸の国旗を 掲げ、国歌君が代を唱す。父兄の中には日の丸をみて泣く人もあった。(後注 2) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上、、人間OCRをした。 後注1  先に 2期生が決まっていたわけだが、 どうして 高校2年からの編入で 1期 生を わざわざ県内の学校から 採用したのかは いまだにわからない。松岡先生に  生前、「せんせい、、どうして わざわざ 新設の学校に 編入をうけたのですか ?」と素朴に聞いたら、 「そりゃ、、ミケ君、ボクは谷山の地元だからだよ」と にたにたしていた。 おそらく 編入して間もないコロと思われる ほとんどが 戦時中の服そうの 1期 生が 現在の ブラザーハウスの玄関前で 記念撮影している写真をみたが、どれ が、当時に 松岡少年だったのかは、 さすがの ボクも鑑定できない、 また、 当時の 南日本新聞の記事内容をみたが、開校前から 非常に 褒めた記事 を載せていたようだ。 ちなみに 私が高校を卒業するころですら、関東以北の 県立高校は 男女別学のと ころがあった。 だが、進駐軍が 男女共学の 統合を やっていったのは 日本の南からと言うのは  わたしですら、知っている。 どうも、、当時の 県知事はじめ 地元が 男女共学への不安。男子のみの学校の設 立を希望するという 背景があったと推定する。 占領下では 日本人の その思惑は 実現が難しかったのだろう。 県知事は 学校設立の申請が通るには 数ヶ月かかるが、この学校はたった3日で申 請がとおった、と 言われたそうだ。 その言葉の裏には、いろいろな意味が含まれているとおもう。 後注2  占領下の日本での 日の丸は 掲揚するのは 許されなかったらしい。それは 松 岡先生から 直接聞いた。当時のラ・サール会のカナダ人ブラザーたち(日本は カ ナダ人の管轄だった)は 日本の学校だから、、国旗の日の丸を堂々と掲揚すればよ いと 考え、実行した。本当に 日の丸をみて うれしいような 表現を 松岡先生 は言っておられたし、列席した父兄が涙を流したというのは 確かに この耳で 聞 いた。 戦前は 官憲の監視下におかれ、戦争中は 抑留されても、ブラザーたちは 決して  憎しみを持たず、戦後の日本のために いろいろと 熱意をもって 接してくれた のは とても感謝しています。 現在 多くの学校の いろいろな式典で、日の丸について 論議があるのに、このエ ピソードを聞けば、美談と聞こえるのか、それとも、反論がでるのかは 難しいとこ ろである。 法王の葬儀に際して、追悼の意味をこめて、カトリックのブラザーたちが 戦後の  混乱期の 日本に 光を与えてくれたことに、今晩、建物の歴史調べを通じて、知り 得たことを 文章にして、謝意にしたい。 さて、もうひとつ お気づきになったであろうか? 昭和25年、1950年の 4月10日に 開校式、入学式がおこなわれたという記 録である。、、 時計をちょうど 55年前にもどせば、時期が一致する。 桜は咲いていたという記述はいっさい見いだせなかったが、当時は 松がたくさん  はえていたという。 それゆえ、小松原というのだが、、開校式、入学式の 生徒が ゴザひいて、地面に すわっていた 写真を確認したが、そのどれが、当時の 松岡少年だったのかは さすがにわからな い。 だが みんな 質素というか 貧弱な服装で、 戦後の混乱期の中のできごとだった ことがわかる。 あれから、55年になる。 はなしは 少し飛躍するが、、 そういう 日本の戦後史をみてきて、かつ、このシリーズの これまでのように 戦前の いろいろな出来事を みてきた ブラザーハウスという建物を まるで 広島の原爆ドームの保存と おなじく、 大事な 文化遺産として、残していきたいというのが 私の希望である。 どうも、1930年にできて、1950年前に改装されて、そのあと、さらに 手を 加えられて 現存しているのだろう。と 推定している。。それが、不肖建築探偵のわたしが 見つけ出した「お宝物」なのである。 あ、そうだ。55年前の 4月10日の開校式、入学式が行われたところというのは 私の記憶がただしければ、 在校時は 職員駐車場、いまも、車を止めるところ のはずです。 では、、また 記録、文献の 鑑定 検証、読みまくりに 浸りたいとおもいます。 つづく、、 Date: Sun, 10 Apr 2005 00:01:46 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044608] 建築探偵 鹿児島谷山もの 8 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です、 つづき、、 このシリーズ、狙いや 動機は複数あります。 1.古い建築の背景、由来、設計などをしらべ   文化財としてのこしたい、報告したい 2.お世話になった鹿児島の谷山に そういう建築がある。 3.自分は その建築のあるところに ちょうど33年前に   縁ができて、3分の1世紀。 4.お世話になった 松岡先生は その建物で 勉強したはずで、   偶然 昭和25年の4月10日に 開校式 入学式がおこなわれ、   ちょうど 55年目にあたる。 5.法王が死去される、どうも 戦前の法王と 縁がある建物である、 >>谷山に 法王の使節団が 来ていた!!! 6.お世話になったカナダ人修道士たちへの お礼。 などなど、 というところです。 今日は 服部先生ご夫妻 ご令嬢が 来られ、松岡ご夫人と そのた 多くの人たちと 宴席やっていました。 席上、わたしが、松岡先生が 昭和45年に書いた 文章のコピーを配布。 同窓生には 医師が多いのだから、聖路加病院のように ラ・サール病院を作ろうという 夢。 いかにもらしいなあ、、というところ。。 奥様は 初期の 母校の大阪PTA会( 母校のPTAは 東京以西の 全国各地に 教師が派遣されて 行われる)の 御写真などを ご持参、 おお、、なんと、わたしの母が写っている。。 昭和47年、48年の写真である。 そして、1期生として、社会人になったら、どうなるかという 講演を 母校でやったときの写真、、 これが 詳細にのこっていた。 同席した河内は、この辺に座っていたと言い、 ボクは この端に座っていたと 話した。。 覚えているのである、二人とも。。それは 当時の講堂、 St Joseph Hallなのだが、 いまは取り壊されて 新しい物になっている。 そのHallで 松岡先生は、「スプーン曲げるでえ」と 大阪弁で 講演していた。 最後に スプーンを実際に みんなの方に投げて、 曲げたようにおもう。。 とにかく、当時の校長のふれこみは、1期生で、 非常に優秀で 大阪で 医者をしていて、 脳の話をする 松岡君がくるから、 みんな 聞きなさいだった。 わたしは なんと はなしの美味い ヒトだと 思った 昭和47年のこととおもったが、 奥様のもってきたアルバムには 49年と書かれていた、 立ち見もあって、満員の講演だった。 そんな写真などを あ〜〜だ、こ〜〜だといって、 服部先生、かわちん、三毛で見ていた、 しかしまああ、、、 松岡先生というのは 記録保管がすごいマメなひとだと おもった。。 つづく。。 Date: Sun, 10 Apr 2005 00:49:50 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044609] 建築探偵 鹿児島谷山もの 9 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) Subject: 建築探偵 鹿児島谷山もの 9 みけです、席上、松岡奥様には あのころは こうだったとか、この写真はどうだったなど、 三毛、河内で ぺらぺらとしゃべる。。 そのあと、谷山地区の 古い写真のカンファである。 これこそ、CPC  クラシカル  フォト カンファレンス。 服部先生の記憶は抜群によく、 わたしが、今回のターゲットにしている、 ラ・サール学園の ブラザーハウスの いろいろな謎解きをしていただいた。 1930年 に フランシスコ会が たてたもので 形は上方からみると T字型 で、入り口というか玄関は 2つあったそうだ。 いま残っているのは、西側の玄関のみ、 1931年6月17日 エドワード ムネー教皇使節が谷山にきたとき ブラザーハ ウスの玄関に 日の丸かかげて、お出迎えした写真が残っている。 この写真を 服部先生がみて、「これは いまの玄関とおなじですよ」と証言され た。 その他、いろいろな谷山の戦前の 「小松原」地区の光景、建物の写真をみていただ いた。 よこで、かわちんは うなずいていた。。 その他、いろいろ写真が載っている記念誌をみて、 僕らのころは あ〜だ、こ〜だと話が咲き、 いったん、終了。。 2次会へ。。 2次会には このMLの メンバーの 母校の大阪同窓会の会長で 先日弔辞を読まれ た 堤さんがこられた。 いろいろと 松岡先生の話をうかがい、、おお、、そうだったのですか、、 とかいうかんじで 楽しいひとときであった。。 で、、たまたま 服部夫人に ボクが持っていたフランシスコ会の 古い資料を 見てもらうことになった。。 さすがはカトリックの女子校でているだけに よくご存じ、 かつ、谷山の育ちという。 いろいろと解説していただいた、、 案外知られていないだろうが、 現在 鹿児島純心学園は 紫原というところにある、校舎からは錦江湾が一望でき る。 そういうところに この学校は行かん、ということで、 現在の谷山のラ・サール学園の地に戦時中はひっこした。 そして、それ以前の谷山の小松原にあった、フランシスコ会の 聖アントニオ修道院(現ラサール学園)の写真とか、当時の市内の ザベリオ教会 (奥様のご指摘だと 以前の ザビエル教会のことらしい) などを見聞していただいた。 非常に正確に、当時の記憶を伝えて頂けた、 それにしても、どうして、鹿児島 奄美のそのような本があるのですか? と質問され、、どうしても調べたいので、 フランシスコ会の 神父様に 頼み込みましたと 説明した、 現在のラ・サール会の 谷山の建物は 戦前 フランシスコ会が 建てたというのは わたしが 在学中に校長されていた修道士から、 お聞きしました。 それで、、フランシスコ会ばかり、調べているわけです。 ここで、すこし 変えましょう。 建物建物と書いていても、そもそもフランシスコ会って なあに、、となります。 http://www.uraken.net/rekishi/rekishi1a.html これを見て頂ければ、 イエズス会との比較がわかるとおもいます。 日本には 1907年ごろ、再上陸してきました。 そして、彼らに与えられたのは、 鹿児島 奄美地区 樺太 千島地区、 さすがに樺太 千島地区の宣教活動は ポーランド管区に移行されています。 で、鹿児島では鹿児島市、川内などで 布教活動がおこなわれていたようです。 どうして、谷山の地に 修道院を作ったのかは その理由は不明ですが、 ガロ兄弟の 長兄が 資金をだして、購入したらしい。。 その他、大島でも、フランシスコ会の宣教師たちは 歓迎され、 学校をつくることになった、 それが、戦前の 大島高等女学校である、戦前に廃校、 ながれとして、鹿児島の純心になっていく。 また 男子の学校を鹿児島につくるという 方針だったので、 谷山に神学校をつくっていた。いつ 廃校にされたのかは 記録を調べてもわからないが、 1941年12月には フランシスコ会のカナダ人たちは すべて抑留されている。 以後、その谷山に 純心学園がうつってきて、 さらに、どうも 戦後は、ポール七田神父というかたが、 谷山に残されたそれらの施設の管理をしていたようだ。 この神父さまと 教区長が熱心に学校の誘致を戦後、おこなったようだった。 では つづく、 Date: Sun, 10 Apr 2005 11:41:42 +0900 From: Masamichi Goto Reply-To: localmtret@umin.ac.jp Subject: [LOCALMTRET:044612] Re: 建築探偵 鹿児島谷山もの 9 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 後藤正道@鹿児島です。 松岡先生を偲ぶ会が無事終了したようで、良かったですね。 あらためて、大先輩の偉業を認識しています。 母校で講演もされていたのは知りませんでした。 At 0:49 +0900 05.4.10, mike norio BB wrote: > そのあと、谷山地区の 古い写真のカンファである。 > これこそ、CPC >  クラシカル  フォト カンファレンス。 う〜む、こんなCPCならば、ぜひ出てみたい。 > 現在 鹿児島純心学園は 紫原というところにある、校舎からは錦江湾が一望でき > る。 > そういうところに この学校は行かん、ということで、 > 現在の谷山のラ・サール学園の地に戦時中はひっこした。 第二次世界大戦中に奄美大島で行われたキリスト教弾圧カも相当にひどかった ようで、そのことを、小坂井 澄という作家が 「悲しみのマリア」の島 集 英社1984年という本に記録しています。 > 建物建物と書いていても、そもそもフランシスコ会って > なあに、、となります。 > http://www.uraken.net/rekishi/rekishi1a.html > > これを見て頂ければ、 イエズス会との比較がわかるとおもいます。 これって、ちょっとイエズス会(上智大学を経営)側にバイアスがかかりすぎでは? フランシスコ会だってちゃんと学校を作って教育をしているわけだし・・・ ちゃちゃでした。 -- ======================== Masamichi Goto 後藤正道 masagoto@mb.neweb.ne.jp ======================== Date: Sun, 10 Apr 2005 16:44:27 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044618] 建築探偵 鹿児島谷山もの 10 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) Subject: 建築探偵 鹿児島谷山もの 10 みけです、 後藤せんせいへ レスする形式で いろいろと書かせてもらいます。 > 松岡先生を偲ぶ会が無事終了したようで、良かったですね。 > あらためて、大先輩の偉業を認識しています。 > 母校で講演もされていたのは知りませんでした。 わたしたちが 在校したころは、有名な大学には通る物の そのあと、どういう風に社会人になっていくヒトが 母校から、でるのか、皆目わかりませんでした、 その点では 一般社会の中では 新設校だったという 印象がボクには残っています。 当時の校長先生(日本人)が 「この学校をでて、有名な大学にはいるだけが 教育の目標ではありません。  いかに社会に貢献する人間を育てるかが、この学校の目的です  もう すでに社会人になって 社会で活躍しているヒトが1期生にいます。」 といって、当時 40才くらいの松岡先生を 紹介しました、 (いや、紹介したというよりも 事前にふれこみを流したという感じ) その次の年の 卒業生の講演は 原田正純氏でした、 水俣病研究をされている 当時の熊本大学の先生です、 わたしは 在校時、このお二人のお話を しっかりと聞きました。 印象、  1.松岡先生は とにかく話術がうまい、私達をあきさせずに いろいろな話題を    話していく、、すでに、大阪のPTAでは 世話役やって 母からは 立派な    1期生がおられて 世話好きだとはきかされていましたが、    この眼で 耳で、検証したわけです。 2.原田先生は、水俣病の病因について、難しいお話を理路整然とされました、    1時間ほどの間、 まるでどこかの医学の学会の 総論の講演のような    スライドをみせていただき、研究の大切さを 説かれていきました。    水俣地区の 猫のおかしな行動とか、胎児性とでも書くのでしょうか、    先天性の水俣病の子供の写真など、見せて頂き、呆然としました。    決してダイレクトに言われませんでしたが、これだけ、学問的    研究の証拠があるのに、行政は 前向きではなかった、    でも、研究は つづける、誰のためですか、、というような    内容だったとおもいます、   そのあと、当時、岩波新書で発刊された、「水俣病」原田正純著を   漁るように読みました。 これら2つは St Joseph Hallでの講演ですが、よく覚えています。 このHallは いろいろな記録から、衛藤右三郎氏の設計であることは 徐々にわかっていますが、老朽化などのため、数年前に取り壊され、 今では 異なる建物が 立っています。 このHallは 先日から私が 話題にしている、ブラザーハウスの 向かい側、西側にたっていたものです。 > >そのあと、谷山地区の 古い写真のカンファである。 > >これこそ、CPC > > クラシカル  フォト カンファレンス。 > う〜む、こんなCPCならば、ぜひ出てみたい。 服部せんせいも 是非、後藤先生をまじえて、 写真の 解析をしてみたらどうかと言っておられました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 > 第二次世界大戦中に奄美大島で行われたキリスト教弾圧カも相当にひどかった > ようで、そのことを、小坂井 澄という作家が 「悲しみのマリア」の島 集 > 英社1984年という本に記録しています。 でしょうね、、、 1907年、カナダ人フランシスコ会が日本に再上陸、 当時 与えられたのが、昨晩書いたように  奄美・鹿児島地区、と 千島・樺太地区です、 そして、千島・樺太地区はすぐに ポーランド管区の管轄になりました。 奄美・鹿児島地区への 布教活動は、1920年代にはじまっています。 そして、数多くの宣教師たちが 鹿児島県内の各地、奄美、種子島などに 布教に いっている記録を 先日来 参考にしている 古いフランシスコ会の記録から見つけ出しています。 ある二人の修道士が 名瀬にいったとき、 郊外へといって散策にいったらしい、 疲れて帰ってきたら、 地元の名士たちが勢揃いして、 相当 立派な宴席が用意されていて、 学校をつくってほしい、 と 地元の篤志多数で、 カナダ人フランシスコ会修道士に 嘆願したらしい。 その宴席の写真は 例の本に きちんと残っていました。 それで、1931年、大島高等女学校を 設立して、 カナダから、 シスターを呼んで、 学校教育を開始しています。 大島高女の写真も現存。 木造の 校舎ですが、 それ以外に 石造のなんらかの構造物が 記録として残っていますが、わたしには判別できません。 そうやって、本来なら 地元のために フランシスコ会カナダ人ブラザーたちは 尽力しました、また、日本人の宣教師も参加、協力しています。 しかし 記録本をよんでいくと、 徐々に 戦雲が近づくにつれて、迫害はひどくなったらしく、 投石されたりするので、交番に電話しようと 公衆電話のところまで 歩いていけず、 はっていって、電話をかけたなど、記録として残っています。 そして、大島高女は戦前に廃校になりました、 それを継承する形で、 聖明会が 昭和8年ころから、女子教育を 鹿児島ではじめ、いまの鹿児島純心学園につながっていきます。 ただ、いつ、引き継がれたのかは わたしの手元の資料ではわかりません。 この辺のことを、昨晩、服部ご夫人(純心学園出身)に 本をみせて、解説すると、 「これを よく見つけ出しましたね」と感心されていました、 たぶん、奥様にとっては2つの点だろうと思います、 1.純心学園の 卒業生として 2.鹿児島のカトリックの信者として、 さらに書けば、カナダ人フランシスコ会の宣教師たちの記録には 彼らが、鹿児島で 目指した物、つまり 学校経営、教育というものは 戦後 かたちをかえ、 1.純心学園という女子教育 2.ラ・サール学園という男子教育 として、現存しているのは 戦前の目標を達成しえたと 書かれており、ミッション、伝道、という 彼らの使命が 80年くらいたった今でも 形をかえ、初期の意向も伝わらないまま でも、きちんと結実しているのに、なにか、心の中に 心地よいものを感じています。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 > >http://www.uraken.net/rekishi/rekishi1a.html > > > >これを見て頂ければ、 イエズス会との比較がわかるとおもいます。 > > これって、ちょっとイエズス会(上智大学を経営)側にバイアスがかかりすぎでは ? > フランシスコ会だってちゃんと学校を作って教育をしているわけだし・・・ ふふふ、、と思わず わたしも苦笑いえます、 わたしは、、と書かずに わたしも、 と書くのはなんとなく、おわかりかもしれません。 日本のカトリックは 細かく分類すると 150か160くらいあります、 フランシスコ会ですら、3つくらいあるとのことです。 ただ、日本とアメリカでは イエズス会が カトリックのメジャーであること、 ボクには フランシスコ会というものが どういうものか 知らなかったのが この半年くらいで、いろいろと接するうちに イエズス会や ラ・サール会とは 異なることなど、 ゆっくりと気づきました。 わたしの患者さんには、フランシスコ会の経営というか 管理にある いろいろな施設の障害者が来られます。 障害者への援助、人権活動(日本的な活動のための活動ではなくて、本当に  ミッションとしての弱き人々への救済)に やさしい修道会という 印象をわたしは 持つようになりました。 それと、ボクですら ベネディクト(歴史が非常に古い) ドミニコ(日本に イエズス会の直後に来ている) シトー(別名 トラピスト、、、バターやクッキーのことで有名) デンブトール(谷山にあるはず) マリヤ会 (学校経営に熱心) ラ・サール会(男子の教育に熱心) 白百合 (フランスの女子修道会) などしか知らず、イエズス会と フランシスコ会の 2つだけの比較でも よく知っている方の2つで 比較してもらって まだ わかりやすい という 初歩的な 初心者的な 素朴な印象です。 > ちゃちゃでした。 いや〜〜〜 今だから書けますが、 フランシスコ会の神父様には ミケ   「フランシスコ会は どんなカトリックの宗派なのですか?」 神父様 「ええ?宗派??」 ミケ   「はい、宗派ですよ、イエズス会とは 違うでしょう」 神父様 「???」 ミケ   「仏教では宗派というのがあるし、       プロテスタントでも宗派というか、、       それぞれが異なるでしょう」 というと、神父様はにこにこされていた、 神父様 「いいえ、、カトリックには宗派なんてありませんよ」 ミケの脳 (????) 突然 英語での会話に切り替える、 mike 「Can I say it is sect in English?」 神父様 「う〜〜〜ん、そうですね」と日本語 この一連の会話でわかるように、 カトリックは 寛容のもと、各修道会が いろいろなことをしている。 日本人のボクからみれば、真言宗と日蓮宗くらいの差はあるのだが、 すべては ローマのPopeにつながり、 たとえば、メキシコでは孤児院を経営する修道士が孤児院経営のために 覆面プロレスレスラーをやり、 ある修道会では キリストとの誓いの下で、質素な生活と共に バターをつくり ともに食を分け合い、 また一方では、日本の南端で、不出来な学生に 真剣に怒っている という いわば 「なんでもあり」だが、みなさん、共通しているのは Popeにつながり、他人に熱心であり、タフである。 ということであろうか、、そして、決して ウソ、偽りがないという点で 共通したなにかを感ずる。 そんな風に感ずるボクでも、教義までの解釈まですると カトリックは ローマにつながるという一点を理解すればなんとなく わかるが、 プロテスタントの宗派というのは 個々に 本当にわからん、 というのが正直なところです。 さらに、もっと難しいとおもうのが 仏教の 経典、 死ぬまでに 聖書を読むことはあっても、仏典を読めて 意味を理解しえるのは このボクでは無理だろうとおもう。 と言いながら、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教の 4つのことがらを 生と死、神について 契約について 個々のあり方、個人と宗教について 男女、死生観 などなど、多種多様の 項目をつくり 頭の中で、上記の4つ、さらにそれぞれの宗派に大まかに分類して 多くの項目について 対比させながら、思考するという 比較宗教学を ゆっくりゆっくりしていっている というのが どうも 最近のライフワークになってきています。 そのひとつの項目に建築探偵が ボクの場合、ちゃんと存在しているのが 一連のシリーズでおわかりでしょうか、 では、、 そのうち、、クラシカル フォト カンファレンスひらいて、 つづきを書きます。 Date: Sun, 10 Apr 2005 18:17:55 +0900 From: Masamichi Goto Subject: [LOCALMTRET:044620] Re: 建築探偵 鹿児島谷山もの 10 後藤正道@鹿児島です。 医療関係のこのMLに、ここまでハズレた話題を書いて良いのか、ちょっと迷 っていますが、服部管理人殿からストップがかからないので、続けます。 At 16:44 +0900 05.4.10, mike norio BB wrote: > 当時の校長先生(日本人)が > 「この学校をでて、有名な大学にはいるだけが 教育の目標ではありません。 >  いかに社会に貢献する人間を育てるかが、この学校の目的です >  もう すでに社会人になって 社会で活躍しているヒトが1期生にいます。」 学校教育というのは、ものすごく気の長い話で、卒業生が数十年たって社会で 活躍して、その子供や社会での後輩をどう育てるのか、そしてそれが世界の平 和のためにどう役立っていくのかという、恐らく100年を超えるスパンで物 事を考えることが出来なければ、馬鹿馬鹿しくて到底やっておれないことだと 思います。 松岡先生にしても、原田正純先生にしても、卒業生の中では傑出した人達だと 思いますが、決して有名ではなくても、ひっそりと「いいしごと」をやってい る人がいます。塾の先生など、不思議と何らかのかたちで「教育」に関わって いる人に多い印象があります。 > 大島高女の写真も現存。 > 木造の 校舎ですが、 > それ以外に 石造のなんらかの構造物が > 記録として残っていますが、わたしには判別できません。 小坂井さんの本には、「大島高等女学校の新校舎」という写真がありますが、 木造ではないようです。でも、ラ・サールの修道院とは明らかに建築様式が違 います。 > 日本のカトリックは 細かく分類すると 150か160くらいあります、 > フランシスコ会ですら、3つくらいあるとのことです。 カトリックの修道会というものについて、少し説明する必要があるようです。 フランシスコ会やラ・サール会、レデンプトール会(デンプトールではありま せん)などの修道会は「宗派」ではありません。それぞれに独立した組織です が、全て、ローマ教皇の認可を経て設立された団体で、互いに「兄弟組織」と いうことができます。それらの中には、教育に特化したようなラ・サール会、 医療や福祉活動に強いフランシスコ会など、さまざまな組織があり、互いに補 完しあって活動しています。 もちろん、歴史的にみれば、イエズス会とフランシスコ会のアジア宣教を巡る 確執(中国における「天」の概念を認めるのかどうかでの神学上の議論が有名 ですが、もっとドロドロとしたものもあったようです。)など、兄弟げんかも あちこちであったようです。 個人的な話になりますが、それに関連して、僕がカトリックという宗教につい て強烈な印象を受けたひとつの出来事を書いておきましょう。 高校2年生になる春休みに、九州のカトリックの高校の聖書研究会の代表が集 まり、「九州大会」を開催するための準備会議が久留米信愛女学院でありまし た。当時ロザリオ会というラ・サールの聖書研究会の代表として参加していた 僕は、その会議の席でどうみても「ウルトラ左派=ほとんどマルキスト」とい う北九州の神父さんと、これまた「ウルトラ右派」という鹿児島の神父さん が、まっこうから激論をするのを見ました。この人達って、本当に同じカトリ ックなのかい?と、当時まだ洗礼を受けていなかった僕は、本当に驚きまし た。 その翌日、その神父さん達が共同で司式をするミサがあり、その二人がごく普 通に「互いの罪を認めましょう」という感じで祈っているのを見て、これはよ っぽどバカか、偽善者か、それともスゴイ宗教か、と思いました。 結局、僕が高校時代に得た最大のものは、徹底した議論と、その結果に対して しこりを残さないことという、国際社会では当たり前の、しかし日本社会では まだまだ完全には受け入れられていない習慣だったように思います。 > 頭の中で、上記の4つ、さらにそれぞれの宗派に大まかに分類して > 多くの項目について 対比させながら、思考するという > 比較宗教学を ゆっくりゆっくりしていっている > というのが どうも 最近のライフワークになってきています。 三毛先生のこの比較宗教学は、是非ライフワークとして続けていって欲しいと 思っています。 -- ======================== Masamichi Goto 後藤正道 masagoto@mb.neweb.ne.jp ======================== Date: Sun, 10 Apr 2005 19:33:41 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044622] Re: 建築探偵 鹿児島谷山もの 10 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです、 後藤せんせい、、まったくもって 私の言い表したいことを レスしていただいてありがとうございます、 建築探偵シリーズは 長い長い目でみた 建築のすばらしさを通じて その背景、狙いなどを解き明かすとともに わたしは いろいろと 調べて 考証して 五〇年、一〇〇年して 社会のどれだけ その建物 その建物の設計者の意図が反映していくかを 探求しているわけですが、 同様に 教育というものの 同様に長い長い年月を経て、 ようやく結実していくものと思っています。 > 学校教育というのは、ものすごく気の長い話で、卒業生が数十年たって社会で > 活躍して、その子供や社会での後輩をどう育てるのか、そしてそれが世界の平 > 和のためにどう役立っていくのかという、恐らく100年を超えるスパンで物 > 事を考えることが出来なければ、馬鹿馬鹿しくて到底やっておれないことだと > 思います。 そのとおりです。・ > 小坂井さんの本には、「大島高等女学校の新校舎」という写真がありますが、 > 木造ではないようです。でも、ラ・サールの修道院とは明らかに建築様式が違 > います。 大島高女のはなしは さすがに、派生的なもので、 これは 後に 資料を後藤先生に直接みてもらって おまかせしたいとおもいます。 > カトリックの修道会というものについて、少し説明する必要があるようです。 この説明、非常にたすかっています。 なにせ、イスラム、ユダヤの 宗派というか、、セクトも 調べて読むのですが、 読むさきから、忘れていきます。 ロシア正教会も なんとなく、その中の分派がわかりつつありますが、 ほかの東方教会は わからない、 ましてや、古典的なところで 分派していたった単性論の キリスト教(シリア正教>実は中国まで伝わる、とか、コプト教) にいたっては 名前は知っているが、教義は さっぱりです、 広く浅くやっているというのが ミケの実情です。 > もちろん、歴史的にみれば、イエズス会とフランシスコ会のアジア宣教を巡る > 確執(中国における「天」の概念を認めるのかどうかでの神学上の議論が有名 > ですが、もっとドロドロとしたものもあったようです。)など、兄弟げんかも > あちこちであったようです。 この部分、なんとなく、想像できます、 > その翌日、その神父さん達が共同で司式をするミサがあり、その二人がごく普 > 通に「互いの罪を認めましょう」という感じで祈っているのを見て、これはよ > っぽどバカか、偽善者か、それともスゴイ宗教か、と思いました。 そうですね。。 いまのボクには それが偽善者なんかに思えるようになりました。 > 三毛先生のこの比較宗教学は、是非ライフワークとして続けていって欲しいと > 思っています。 傷心で、大阪にかえってきて、最初は近所の仏教の ちゃんと教育されたお坊さん、 かつて、よく遊びにいっていたお寺のお坊さん、 プロテスタントの 牧師さんたち、 いろいろとお話し、 密教の世界にも足を運びました。 いろいろと質問すると  自分の教義にそってお答えして頂けるのですが、 一時は 科学者にあこがれた身ですから、 だったら、ほかの宗教と比較してどういう風に考えればいいのでしょうか、 と素朴に聞いても、知りません、習っていません などと応えられるだけでして、 それじゃあ わたしが 素人なりに やっていこうと 自分で そのようなものを 頭の中に構築しはじめていきました、 いま、頭の中には エクセルのように、 各宗教と宗派の 「行」 思考、思想、神、生と死 偶像、死生観 建築、会がや像など美、自殺について 男女のこと、戦いについてなどの 「列」 それぞれのセルのところに 入力していっています。、 では。。みけ Date: Sun, 10 Apr 2005 20:25:04 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044623] Re: 建築探偵 鹿児島谷山もの 10 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) > そうですね。。 > いまのボクには それが偽善者なんかに思えるようになりました。 ひえ〜〜〜 訂正です。 みけです、 昨日の深酒が聞 きいていたのか、打ち間違いです。 完全に逆の打ち間違い、誤解うむので、 訂正します、 「偽善者なんかに思えないようになりました、」 で、否定形の文章が ボクが打ちたかった文章です。 すみません。 若かりし頃、まわりが偽善者偽善者というのがいましたが、 ボクは偽善者という言葉が わからず、 使わなかった語彙のひとつです、 今日は、午後二時半まで寝込んでいたので、 やはりぼけていたようです、 ごめんなさい、神父様、修道士さま、シスター様、 ふ〜〜、それにしても、じんま疹がかゆい、 いくら 抗アレルギー薬をのんでも、たまらん。 こいつが 集中力がおちたひとつの原因と かけば、水戸のかわちんは笑っているだろう、、 なんでまた、大阪まで 昨日 納豆をもってくるのじゃあ、、、 では、 Date: Sun, 10 Apr 2005 21:13:59 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:044626] 建築探偵 鹿児島谷山もの 11 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです、 つづき、、 いろいろと資料を 読みまくっています。 どうして、戦前のフランシスコ会が谷山に来たのか、 構えたのかがわかりませんが、 いま 時系列の年表をみると、 ガロ兄弟の長兄が 寄付した、 とか モントリオールのヒトの寄進で、買収が行われたというのが 戦前の記録です。 戦前、鹿児島地区に関しては最後の黙想会をして、日本人に委託して カナダに引き 揚げたと 記録はのこっています。 その日本人が七田神父だったのかは いまのところ不明です。 では