by 
N. Hirakawa 

アメリカ放浪編 その1

テキサスで柔道を教えることになったいきさつを紹介します。

私がアメリカに留学することになって、柔道部の先輩である九大脳外科教授が、柔道部主催で私の壮行会を開いてくれました。
この時、この先輩が仰るには、
「日本の医者や研究者といったってアメリカ人は尊敬してくれるとは限らないが、柔道の有段者といったら畏敬の念は抱いてくれる。平川、黒帯を持っていけ!」
「押忍!有り難うございます!」
ということで、スーツケースに柔道着も詰め込んで、ガルベストンというヒューストンの南、車で約1時間半、メキシコ湾に面した、かつての綿の積出港にある University of Texas Medical Branch at Galveston (U.T.M.B.) に着いたのが89年11月でした。

最初の数カ月は、研究の準備も忙しく、いったいテキサスの田舎町(人口数万)なんかに柔道場があるんだろうかとも思い、積極的に道場を探すこともしませんでした。

私は未婚の状態で留学したため、遊び相手を捜しにヒューストンのギャラリアというショッピングセンターにあるスケート場に通ったりもしていたのですが(皆覚えていますか?私はフィギュアスケートの国体選手でもあったのですよ)、どうしても10代の子供か4、50代の人達が多く、週2、3回ヒューストンまで通うのも面倒くさくなり、次第に行かなくなっていました。

そんな時、UTMB の日本人の教授の知り合いの research fellow の中国人の女性が突然私の研究室を尋ねてきて、UTMB のキャンパス内に柔道場があるらしい、自分も入部したいから一緒に行かないか? とのお誘いがありました。

New York や California ならともかく、テキサスのこんな小さい町の大学に柔道をやっている人がいるだけでもビックリなのに、柔道部が定期的に練習しているなんて本当に驚きでした。

その日の夕方、キャンパス内にある Field House というちょっとしたトレーニングジムに彼女と二人で足を運んでみると、懐かしいドスンバタンの響き。
彼らはエアロビクスのスタジオに、tatami mat と呼んでいたマジックテープで接着する薄いマットを敷いて練習していました。
黒帯が2人、茶帯が1人、黄色帯、緑帯、白帯などが数名、合計8人程度の所帯でした。
考えてみれば、ラ・サール柔道部だってそんなに大所帯だったことはないし、九大医学部柔道部にいたっては、試合に参加する5人を揃えるのが大変で、内田君に出場を依頼したこともあるぐらいだから、私たちを入れて10人だなんて大したモンだ。
ウヘェ〜、しかしやっぱりデカイや、ケガしないで帰れるかなぁ と思っていると、皆練習をやめて、怪しげな東洋人のカップルに目をやりました。その視線の先には、 使い古された私の黒帯が...

2人の黒帯がこのクラブの指導者で、一人は Larry Thorpe 3段 40代後半 165cm 75kg biochemistry の assistant professor。講道館に通っていて、水道橋近辺を柔道着を手に持って歩いては、日本人のサラリーマン達からタダで晩飯を食わせてもらっていたこともある強者。あのヘーシンクの信頼を得てスイスでのヨーロッパ合宿を仕切っていたらしい。
もう一人は Paul Dimarco 2段 36歳 185cm 100kg marine biology の technician。スポーツ万能、ハンサム。高校・大学を通じてレスリング、アメフト、アイスホッケーのキャプテン、スター選手であったが、ニューヨークにいたとき、たまたま有名な柔道の先生にこてんぱんに投げられて、柔道に没頭するようになる。バルセロナオリンピックで吉田に決勝で投げられたアメリカ代表は、Paul と一緒のクラブのエースだったヤツとのこと。96年 Arizona で行われた 100 mile marathon に参加。テキサスからの参加者でただ一人完走。

この二人に誘われるままに、さっそく練習に参加してみました。
柔道は学生の時以来6年ぶりで 体がほとんど動かず、すぐに顎を出したのですが、テキサス柔道は日本式とはだいぶ違っていて、どうしてもレスリングのような縦への直線的な動きの多い柔道で、最初はビックリしたものの、最後には何となくあしらえるようになっていました。
何とか練習も終わり、シャワーを浴びてそのまま日本の柔道部と同じようにパブに直行、勧められるままにテキサスビールをがぶ飲みし、それぞれ自己紹介をして、自分達の話や柔道の話で大笑いし肩を叩きあい、久しぶりに腹の底から楽しんで、柔道部(UTMB Judo Club)に参加することを約束し、見事な酔っぱらい運転でアパートに帰ったのでした。

ところで アメリカには自分以外の人にビールを注ぐ習慣がありません。
ビールの大瓶がないのが理由なのかなとも思いましたが、ピッチャーでも相手にそのまま渡してしまうのでやっぱり習慣が無いのでしょう。
もし、テキサスであなたの空のグラスに直立不動でビールを注ごうとするサラリーマン以外のアメリカ人を見つけたら、柔道をやっていなかったか聞いてみて下さい。
私が仕込んだ風習です。

柔道部行きつけの Stage Door というこのパブはその名の通り、かつてガルベストンが綿の積み出しで栄えた頃に作られた劇場の隣にある、世界中からいろいろな酒やビールをを集めているのが自慢のパブで、アサヒスーパードライやキリン一番絞りを取り寄せてくれて私を感激させました。
これがニューヨークなら当たり前かもしれないけど、ガルベストンだからねぇ

さて、次の練習日に Field House に行ってみると、部員が30人ぐらいいて、押すな押すなの大にぎわい。
黒帯を締めているのも12、3人もいるじゃないか。
Paul に UTMB にこんなに柔道部員がこんなにいたのかと聞くと、これは日本から講道館3段のヤツがきていると聞いて、ヒューストン周辺から稽古をつけてもらいに来た連中だという返事です。
ちょ、ちょっと待ってくれ、俺はもう現役じゃないんだぞ!
そんなことお構いなしに次から次へと乱取りの申し込みが殺到。中には、おまえに勝ったら黒帯をくれるかというヤツもでる始末。
何考えてるんだ、柔道はボクシングとは違うんだぞ!
見れば、白帯はしているものの2m 130kg、おまけに若い。アメフト上がりだな!
こんなに死にものぐるいで柔道をしたのは、高校の県大会の時以来じゃないかというほど頑張りましたヨ。
このデカイ白帯のヤツは全く問題なかったけれど、初段に関してだけいえばアメリカの方が日本の初段より強いという印象でした。
日本は初段の基準が甘いけど、アメリカでは競技会で勝ってポイントをあげないと、昇級昇段しない仕組みになっている為でしょう。

アメリカ柔道は伝統的に日本人の多いニューヨークを中心とする東部とカリフォルニアが強くて、テキサスを含む中西部はどうしてもレスリング上がりの柔道スタイルになっていました。
ヒューストンには日本人の指導者の方が一人二人おられる様子だったのですが、やはり日本柔道の香りを持った人と練習したいというのが彼らの希望だったようで、これをきっかけにして彼らの練習場にも出かけるようになり、週に3回は UTMB で、1、2回はジョンソンスペースセンター NASA のある Clear Lake(ここは中流の上の家庭が多い地域)の道場へ、そしてときどき他の道場へ遠征というスケジュールが私に関係なく決められてしまったのでした。
本当は私がOKしたかもしれないけど、いつものように酔っぱらっていたから..

教えていて最初は、懇切丁寧に細かく指導していたのだけれど、どうしても日本人が当たり前だと思っている動きができない。
英語であと3センチ腰を落とせ、あと半歩足を開けと指導しているより、漠然としたイメージを自分たちに考えさせる方がうまくいく。
日本語でリズムを取ってやる方がうまくいくのに気付き、彼らをヒューストンのカラオケバーに連れていった。翌日の練習で「川の流れのように」とうそぶいたところ、うまく動けたという話でした。